目  次

「プロレタリア統一戦線論」の検討(七七年九月)
  〔一〕初期コミンテルンの「統一戦線」論
  〔二〕「プロレタリア統一戦線論」の検討
  〔三〕若干の確認点(整理点)と、今後深めるべき課題

“「プロレタリア統一戦線論」の検討”について(八○年一二月)


「プロレタリア統一戦線論」の検討

一九七七年九月
倉田 洋

 この作業の問題意識と目的について最初に簡単にふれておこう。

(1)
 かつて六五年の日韓闘争の総括においてわれわれは「プロレタリア統一戦線」の建設を提起した。――「日韓会談粉砕闘争総括」(65・12)「プロレタリア統一戦線論」(66・9)
 「すでに日本資本主義の危機は、支配階級の本格的なファシズムへの傾斜――行政権力の自立過程の進行と、そして大衆的なファシスト党としての萌芽をもつ公明党の形成を生み出している状況において、社民・日共も、すでに総体的・包括的な反革命的鉄鎖の確立を行ないつつあった。それは具体的にはIMF・JCへの動向であり、民族民主統一戦線としての権力基礎の確立であった。」「このような時代においては、社民・日共に対決する内容は、一時的に、社共の弾劾にとどまりえず、権力奪取の自らの権力基礎の培養を戦略的に位置づけ、それを具体的な諸階層との関連、統一戦線の問題にまで絞りあげたものでなければならなかった。勿論我々は、行動委員会の提起を行なった時においては、二重権力の基礎の培養、それによる民同からの訣別ということを目指していた。しかしそれは日韓条約の内容、更には闘いの構造、そしてそれに対応した諸階級諸階層の動向にまで絞りあげた上での権力奪取の全構造を分析した純化された形での戦略的な方針の確立――その上に立ってしか、社共からの決定的対決、訣別は不可能である、という点において全体的に不徹底であった。我々は……『一点突破』という言葉で表現された帝国主義段階後期における闘争の本質的な構造の徹底的な確認の上に立って、それが、なおかつ今述べた如き点において、全体的、包括的に不十分であったことの総体的な教訓を『プロレタリア統一戦線』という方向へ絞りきられるべき、非妥協的な戦略的方針の不徹底、あるいはその故に、自らの進むべき方向を、それへ収れんさせていくべき方向としてたてる。」(『プロレタリア解放のために』五九〜六〇頁)
 この「プロレタリア統一戦線」=「戦略的な権力基礎の培養」という把握は、周知のようにコミンテルン「統一戦線」論の批判的総括の上に形成されて来たものであった。以後「プロレタリア統一戦線の旗のもとに」は我々の合言葉となり、「プロ統派」を名のることになる。

(2)
 戦後第二の革命期の現在、「プロ統」提起以降十余年の苦闘と蓄積の上にたって、我々は今あらためてこの「戦略的な権力基礎の培養」に向けての活動を飛躍的に強化しなければならない。
 同時にそのことの成功的な実現のためには、この十余年にわたる我々の「プロ統」建設のための闘いと、その理論的根拠としての「プロ統論」の根本的な総括と深化が不可欠である。
 何故なら、とりわけ六九〜七〇以降、次のような問題が生み出されているからである。

@ 問題をハッキリさせるため極言すれば、「プロ統」の「空語」化、あるいは、党派運動、潮流運動の別名化。勿論「プロ統」=「戦略的な権力基礎の培養」とし、かつ「プロ統」運動、あるいは現段階的「プロ統」ということからすれば、それが現象的に党派運動、潮流運動と同一であるかのような姿において開始されていくことは不可避である。しかし「プロ統」=「戦略的な権力基礎の培養」とする場合でも、あえて「プロ統」を提起したということは、一つの飛躍、転換、新たな領域への踏み込みを意味している。さきの「日韓闘争総括」における提起でいえば「行動委による二重権力基礎の培養」と「他階級他階層との関連をも射程に入れた戦略的な権力基礎の培養」の差異の問題である。
 問題は、運動としての、あるいは現段階的「プロ統」が、現象的には党派運動、潮流運動とイコールであるかのような姿をとっているということに直接あるのではなく(「プロ統」の出発時、あるいは階級闘争の反動期にはある程度不可避)、「権力基礎の培養」に向けて、何故「プロ統」の提起がなされたのか、その固有の、あるいは相対的に独自な任務・課題はどのようなものとして明らかにされ追求されたかということをめぐっている。
 現在の「プロ統」の「空語」化、党派・潮流運動の別名化は、前者というより、後者の問題点に帰因しているのではないのか。
 そうだとすれば、「プロ統」が「戦略的な権力基礎の培養」という課題の飛躍の問題として提起されたものである以上、その「空語」化は、「戦略的な権力基礎の培養」にも成功しないことを意味することになる。

A 「プロ統」と、ソビエト運動、行動委連合等との概念上の混乱。たとえば、「プロ統」=ソビエト運動という理解、「プロ統」<ソビエト運動という理解、「プロ統」>ソビエト運動という理解の混在。
 これらはすでに、単なる概念上の混乱ということに止まらぬものとして、実践上の混乱を生み出している。これらのことの概念上の整理、統一、共有化は、それのみではたしかに実践上の諸困難の解決となるわけではない。だが、「概念」は、実践上の諸問題を総括し、課題を明らかにしていく上で不可欠のものである以上、その正しい整理、統一、共有化の欠如は、実践上の諸困難を倍化させるか、あるいはその経験(主義)的「解決」のもとで概念の無力化、「空語」化となるかである。いずれにせよ、現状は、実践上の諸経験を系統的、目的意識的に蓄積し、欠陥、従って課題を明らかにし、さらに前進することを大きく阻害するものとなっている。
 このことの突破は、「プロ統」と、ソビエト運動、行動委連合の両側面での再点検としてなされなければならない(後者については別提起がなされている)。

B 「プロ統」と共同闘争の関係についての非有機的な把握の傾向。我々は「プロ統」は「戦略的な権力基礎の培養」であり、「共同の敵」「当面の要求」にもとづいて形成されるのは共同闘争であり、コミンテルン「統一戦線」のジグザグは、その混同の結果であるとして来た(このことの点検、正否は、後にふれる)。しかし、そのことの区別は問題の解決なのではなく、ただちに「現在のあらゆる共同闘争において、くりかえしくりかえし共同闘争をプロレタリア統一戦線へと形成していかなければならない」(「プロ統論」)と、いう困難な課題に直面するものとして、出発点に立ったにすぎない。いいかえれば問題の解決へ向けての第一歩としての「プロ統」と共同闘争の区別は、ただちに「プロ統」と共同闘争との有機的な関係をめぐる新たな緊張を不可避とするのであり、そうでない限り、区別は無意味、かつ、無力な「概念整理」となってしまうだろう。
 しかし実際上の傾向としては、この「プロ統」と共同闘争の区別が、後者の軽視か、きり捨て、あるいはそこへの没入として、前者との対立となってしまい、その背後で「プロ統」が共同闘争との緊張を失なって(「拡大再生産」への通路を失なって)「空語」化するということになって来ているのではないのか。――このことは、労組(さらに都労活等)、選挙、議会、SP分派闘争、政治共闘、地域での諸共闘等で我々が傾向的に経験して来ていることである。

(3)
 ここでは以上のような問題をふまえて、その突破のために、あらためて、「統一戦線」とは何か、プロレタリア革命運動における、その固有の位置と任務は、どのようなものであるのかということについての予備作業に入りたい。順序としては、@初期コミンテルンの経験、A我々の「プロ統論」の検討、B現段階的な確認点とつめるべき課題ということになるだろう。

〔一〕初期コミンテルンの「統一戦線」論

(1)「出発点」は何か――ドイツでの教訓
 初期コミンテルンの「統一戦線」論を評価する上で、その「出発点」をいかに押えるかが、きわめて重要である。その場合、コミンテルンでの定式化に先立つドイツでの経験をみておくことが必要である。それは、初期コミンテルンの活動が、ドイツを「主戦場」とし、そこでの経験にもとづいて「統一戦線戦術」が形成されていったということのみならず、ドイツでの「統一戦線」をめぐる試行錯誤のうちには、後のコミンテルンでの定式化、従ってボルシェヴィズムにもとづく傾向的把握(その問題点については、後にふれる)のワクからはみ出す問題が「原型」的にはらまれているからである、
 以下、「統一戦線」の展開という視点から戦後ドイツ革命の経験を簡単にみておこう。

関係年表
18・12ドイツ共産党(スパルタクス・ブンド)創立大会
19・ 1一月闘争、ローザ、リープクネヒト虐殺
国民議会選挙
ブレーメンレーテ共和国崩壊
ベルリンのゼネスト
コミンテルン創立大会
バイエルンレーテ共和国崩壊
10ドイツ共産党第二回大会、「共産主義の原則と戦術に関する指針」33:18で採択(反対派除名)
20・ 1経営協議会法反対デモ
ドイツ共産党第三回大会(反対派除名)
カップ一揆
ドイツ共産主義労働者党結成
レーニン『共産主義における「左翼」小児病』
コミンテルン第二回大会
10独立社会民主党分裂
12ドイツ統一共産党発足
21・ 1「公開状」戦術の推進
三月行動、「攻勢理論」
コミンテルン第三回大会
12「労働者統一戦線と、第二、第二半、アムステルダム、各インターナショナル所属労働者ならびにアナルコ・サンジカリズム諸組織支持労働者への態度とに関する指針」
22・ 1ドイツ共産党中央委、「労働者政府」スローガン支持
ベルリン経営協議会の集会
10ドイツ共産党「綱領草案」発表
11コミンテルン第四回大会
23・ 1ルール占領
ドイツ共産党第八回大会、「右派」の「統一戦線と労働者政府の戦術のための指針」採択(「左派」の対案「統一戦線と労働者政府に関するテーゼ」否決)
クノー政権打倒闘争
10ザクセン、チューリンゲンに「労働者政府」成立
十月闘争

@ ドイツ統一共産党(VKPD)とドイツ共産主義労働者党(KAPD)
 一九年一月、スパルタクス・ブンドの一月闘争の粉砕の上にワイマール共和国が発足した。国民議会選挙をボイコットしたドイツ共産党(KPD)は、この時期、尚「国民議会を打倒せよ! 労兵協議会にすべての権力を!」を掲げている。すなわちレーテ(運動、革命、権力)が直接的な課題とされている。だがルールの闘い、ブレーメンレーテ共和国、ベルリンゼネスト、バイエルンレーテ共和国等の闘いとその敗北を受けて一九年に開かれた第二回大会において「共産主義の原則と戦術に関する指針」が、「左翼」反対派を即除名しつつ採択される。KPD内部に生み出されたこの「左右対立」は、翌二〇年二月の第三回党大会で決定的となり、パウル・レーヴィ指導部によって、再び大量の反対派党員が除名されている。これら「左派」は、二〇年四月ドイツ共産主義労働者党(KAPD)を結成することになる。他方「左派」をきったKPDは、カップ一揆打倒の闘い(二〇年三月)をくぐった二〇年十二月独立社民左派と合同し、三〇万のドイツ統一共産党(VKPD)を発足させている。
 問題は、このパウル・レーヴィ指導部と、後にKAPDに結集する「左派」グループとの対立性格である。結論的に言ってそれは、直接的には、共に「レーテ」(運動・革命・権力)を前提としつつその実現のための「迂回路」、諸条件、過渡的任務(争点としては、議会、労働組合、独立社民左派との交渉)を認めるか否か、そして以上のこととの関係で、「党」の独自の位置と任務を認めるか否かをめぐっていた。前者は、それを肯定し、後者は否定した。だがこう要約する限りではKAPDは「これは、なんという古くさい、先刻御承知のがらくただ! これは、なんという『左翼』的子供らしさだ!」(レーニン)ということになってしまうだろう。しかし「左派」はレーニンも認めたように優秀な党員が多く、かつ、党内において多数派だったのである。
 注意すべきことは、さきの「迂回路」を認めるか否かの背後には<@>現情勢(主客の)をどう押えているか、プロレタリア革命運動における「政治」「党」の領域の把握の仕方、レーテ(運動・革命・権力)の本質をいかに把握しているか、ロシア革命の場合と単純アナロジーのできない議会・労働組合・社民の性格の評価の仕方等々での対立があったということである。このようにみるとき、パウル・レーヴィ指導部の「共産主義の原則と戦術に関する指針」と「KAPD綱領」(二〇年五月)を対比して、単純に後者を「『左翼的』子供らしさ」として戯画化することのできない問題がはらまれているということもできる。前者にも「迂回路」の強調が、事実上「レーテ」(運動・革命・権力)のきり捨てとなる危険性がはらまれていないわけではないからである。
 にもかかわらず、KAPDの、「現段階的任務」の確定を含まぬ「世界史的任務」の強調、「レーテ思想」の神秘化・万能化、議会、労働組合の「反革命」規定、「迂回路」・過渡的任務の否定、総じて「政治」「党」の固有の位置と任務の把握の欠落等は、敗北の途であることをハッキリさせておくべきであり、スターリン主義的「政治」や「党」への絶望から、この潮流(「評議会共産主義者」)を心情的に「再評価」しても何ものも生まれないだろう。
 ここで重要なことは、パウル・レーヴィ指導部とKAPDの分裂は、「レーテ」(運動・革命・権力)に一しゃ千里につき進み得ない中で、そのための「迂回路」の評価をめぐって生み出されたこと、VKPDはそのことでの格闘を通して一歩「政治」の領域を定立しえたこと、しかしその定立は、「レーテ」との間に新たな緊張、「ジレンマ」を生み出したことの確認である。

A レーニン『共産主義における「左翼」小児病』の意義と問題点
 ここでは、この著作の背景的な問題は省いて、この作業の目的との関連における核心的な内容に入ることにする。

〈a〉『共産主義における「左翼」小児病』は、たとえば向坂派協会的な右翼的理解とは異なって「ソビエト」(運動・革命・権力)を、前提としていること。「一九一七年の二月革命と十月革命は、ソビエトを全国的規模で全面的に発展させ、のちにプロレタリア的・社会主義的変革におけるソビエトの勝利へとみちびいた。さらに、二年たらずのうちにソビエトの国際的な性格が明らかとなり、この闘争形態と組織形態は国際労働運動にひろがり、ソビエトの歴史的使命は、ブルジョア議会制度、ブルジョア民主主義一般の相続人、後継者となることだ、という点がはっきりした。」

〈b〉以上のことの上に立って、この著作の全展開は「第一の歴史的な任務(プロレタリアートの階級意識ある前衛をソビエト権力と労働者階級の独裁のがわにひきよせること)は、日和見主義と社会排外主義に対する完全な思想的・政治的勝利なしには果されなかったのであるが、いま当面の任務となっている第二の任務、つまり革命に際して前衛の勝利を保証することのできる新しい立場に大衆を導くという任務は、左翼的な空論主義を一掃し、その間違いを完全に克服し、それから解放されないなら、これを果すことはできないのである」ということに向けられている。
 「いまは、すべての力、すべての注意力をつぎの一歩に集中しなければならないときである。この一歩はさほど根本的なものでないようにみえる――又ある立場からみると実際にそうである――が、しかしそのかわり、この一歩は、ほかならぬプロレタリア革命への移行、あるいは接近の形態をさがし出すという任務の実践的な解決に近づくものなのである。」すなわち「ソビエト」(運動・革命・権力)を前提としつつ、その直線的な実現が不可能となった状況のもとで、それへの「移行、あるいは接近の形態をさがしだす」ことが死活的な課題となったということである。
 たとえば、議会・労働組合・社民の問題に関して次のように言う。
 「古い形態が破裂した、その中の新しい内容が――反プロレタリア的・反動的な内容が――過度の発展をとげたからである。現在われわれのところには、国際共産主義の発展の立場からみて、非常に堅固で非常に力づよく非常に威力のある活動内容(ソビエト権力のためのプロレタリアートの独裁のための活動内容)がある。この内容は、新しかろうと古かろうと、どれでもすきな形態をとってあらわれることができるし、又そうでなければならぬ。又この内容は、いっさいの形態――新しい形態だけでなくて、古い形態さえもつくり直し、それにうちかち、それを自分に従がわせることができるし、又そうしなければならぬ、――これは古い形態と調和させるためではなくて、ありとあらゆる形態を、新しいものであれ、古いものであれ、共産主義の完全な、最後の決定的な、くつがえされることのない勝利をもたらす武器にするためである。」
 「右翼的空論主義は、頑固に古い形態だけしか認めず、新しい内容をみなかったため、完全に破産した。左翼的空論主義は、一定の古い形態を無条件に否定し、新しい内容がありとあらゆる形態をとって自分の道路を切りひらいてゆくものであることをみない。又、われわれが共産主義者としてつくすべき義務は、すべての形態を自分のものとし、最大限度の速度で一つの形態を別の形態でおぎない、一つの形態と別の形態をとりかえ、われわれの階級またはわれわれの努力と無関係にどんな変化が起きても、自分の戦術をそれに適用するすべをまなぶことだが、左翼的空論主義はこの点をみようとしない。」(最後の個所は「党」の位置と任務の問題だが、これについては後にみる)。
 さらに「いま、肝心なことは、各国の共産党員が、十分な自覚をもって日和見主義と『左翼』空論主義にたいする闘争の根本的な原則的な任務を完全に意識的に考慮するとともに、この闘争がそれぞれの国でその経済、政治、文化、その国の民族構成(アイルランドなど)、その植民地、その宗教的区分、等々に応じてとっており、又どうしてもとらざるをえない具体的な特殊性をも完全に意識的に考慮するにある。」「単一の国際的任務を解決し、労働運動内にある日和見主義と左翼的空論主義に勝利し、ブルジョアジーをうちたおし、ソビエト共和国とプロレタリア独裁を樹立するために、各国が具体的な態度をとるにあたって、民族的に特殊なもの、その民族的に独自なものを調査し、研究し、さがし出し、推測し、把握すること――ここにこそ、すべての先進諸国(先進諸国に限らないが)が経験しているこの歴史的な瞬間の主要な任務がある。次に重要なことは、「党」の位置と任務の問題が、以上のようなこととの関係で立てられていることである。
 たとえば「……その意味で、労働組合のある種の『反動性』は、プロレタリアートの独裁のもとで避けられないものである。これがわからないのは、資本主義から社会主義へうつりかわるときの根本的な条件が全くわからないことを意味する。この『反動性』をおそれ、それを避けようと試み、それをとびこえようと試みることは大間違いである。なぜなら、それは、プロレタリア前衛の役割、つまり労働者階級と農民のもっともおくれた層と大衆とを教育、啓蒙、訓練し、新しい生活へとひっぱってゆくという役割をおそれることを意味するからである。だが一方、組合主義的な狭さをもつ労働者、同業組合的な、又は労働組合主義的な偏見をもつ労働者がひとりもいなくなるときまで、プロレタリアート独裁の実現をのばすことは、なお一層大きな誤ちだろう。政治家の技能(そして又共産主義者が自分の任務を正しく理解するということ)は、どんな条件のもとで、又どんな場合にプロレタリアートの前衛は首尾よく権力をとることができるか、又権力をとる場合とその後とで労働者階級と非プロレタリア的な勤労大衆とのきわめて広い層から十分な支持をうけることができるか、又その後で、勤労大衆のますます広い層を訓練し、教育し、自分の方にひきつけながら、自分の支配をたもち、つよめ、ひろげることが出来るかを、正しく測定することにある。」
 「党派性」ということも「資本主義から社会主義へうつりかわるときの根本的な条件」という問題に関わる。「共産主義の立場から党派性を否定することは、(ドイツにおける)資本主義崩壊の前夜から、共産主義のもっとも低い段階にでも中位の段階にでもなくて、もっとも高い段階に一足とびにゆくことを意味する。」
 これらのことを理解できぬまま「指導者の党ではなく、大衆の党」「ますますソビエト化する共産党」などといっている限り「党と党規律の否定――これこそ反対派のおちつくところだ。」

〈c〉この『共産主義における「左翼」小児病』はヨーロッパの共産主義者に大反響する。同じ「左派」内部でも、たとえばトリアッティにとっては「それは私たちには啓示以上のものであった」が、他方では強い反撥をよび起した。KAPDのイデオローグてあったオランダ人共産主義者、ヘルマン・ホルターの「同志レーニンへの公開書簡」にそれは代表されている。「あなたの本ではおそらくいちばん重要な章である『二、三の結論』について、何か言う仕事が残っています。私は夢中になって、それを読みかえしました。そのときは、ロシア革命を念頭においていたのです。しかし、私はますます考え直さざるをえませんでした。ロシアにとっては輝かしい戦術も、ここヨーロッパではよくない。この戦術はここでは敗北にみちびく、と。……慎重であって下さい、同志よ!」
 このような危機感のもとにホルターは、自分の批判を次のように要約している。「第三インターナショナルは、西ヨーロッパ革命は、ロシア革命の戦術の法則にまったく従って進行するであろう、と考える。左翼は、西ヨーロッパ革命はその独自の法則を有し、それに従うであろう、と考える。
 第三インターナショナルは、西ヨーロッパ革命は、小農および小ブルジョア党との、さらには大ブルジョア党とすらの妥協や連繋をおこなうことがありうるだろう、と考える。左翼は、そのようなことは不可能である、と考える。
 第三インターナショナルは、西ヨーロッパでは革命時に、ブルジョア党、小ブルジョアおよび小農党のあいだに『仲間割れ』や分裂がありうるだろう、と考える。左翼は、ブルジョア党と小ブルジョア党は、革命終了近くまで、ひとつの結合した戦線を形成するであろう、と考える。
 第三インターナショナルは、西ヨーロッパおよび北アメリカ資本の力を過少評価する。左翼は、この大きな力を完全に認識して、その戦術を形成する。
 第三インターナショナルは、すべてのブルジョア階級を結束させる銀行資本、大資本の力を認識しない。左翼はこれに反して、この結束力の考慮の上にその戦術を構築する。
 第三インターナショナルは、西ヨーロッパにおけるプロレタリアートの孤立を信じないため、西ヨーロッパ・プロレタリアート――元来あらゆる領域でなおブルジョア・イデオロギーに深く緊縛されている――の精神的発展を軽視し、奴隷性とブルジョアジーの思想への隷属を存続させる戦術を選択する。左翼はまず第一に、プロレタリアートの精神が解放されるように、その戦術を選択する。
 第三インターナショナルは、その戦術の目標を精神の解放におかず、また、すべてのブルジョア党と小ブルジョア党の結束にもおかず、妥協と『仲間割れ』におくため、古い労働組合を存続させ、それを第三インターナショナルに吸収しようとつとめる。左翼は、まず第一に精神の解放を望み、ブルジョア諸党の統一性を信じるため、労働組合否定はされなくてはならないこと、プロレタリアートはより良い武器を用いるべきことを理解する。
 第三インターナショナルは上述の理由から、議会主義を存続させる。左翼は上述の理由から議会主義を止揚する。
 第三インターナショナルは、奴隷制の状態を第二インターナショナルにおけると同様に放置する。左翼は、奴隷制の状態を根底から変革しようと望む。左翼は、悪を根源においてとらえる。
 第三インターナショナルは、西ヨーロッパではまず第一に精神の解放が必要なことを信ぜず、また、革命におけるすべてのブルジョア党の統一を信じないため、現実に共産主義者が存在するかどうかも問わず、共産主義者が存在することにその戦術の目標もおかない――大衆しか存在しないときに――ままに、大衆を自己の周囲に集める。左翼は、共産主義者からのみなる党をすべての国に形成しようと望み、この点に戦術の目標をおく。左翼は、この、
、はじめは小さな党の実例によって、プロレタリアートの多数を、すなわち大衆を共産主義者に仕上げようと望む。
 第三インターナショナルにとっては、従って西ヨーロッパの大衆は、手段である。左翼にとっては、それは目的である。
 第三インターナショナルは、上述の全戦術(ロシアでは全く正しかった戦術)によって、指導者政治をおこなう。左翼は、これに反して大衆政治をおこなう。
 第三インターナショナルは、上述の全戦術によって、西ヨーロッパ革命だけでなく、とりわけロシア革命をも没落にみちびく。左翼は、それに反して、その戦術によって、世界プロレタリアートを勝利にみちびく。」
 そして、積極的な主張の要約としては「<@>西ヨーロッパ革命の戦術は、ロシア革命の戦術とは全く別でなくてはならない。
なぜなら、ここではプロレタリアートは孤立しているからである。したがって、プロレタリアートは、ここでは他の全階級に対抗して、独力で革命を遂行しなくてはならない。したがって、プロレタリアート大衆のもつ意義は、ロシアにおけるよりも相対的に大きく、指導者のそれはより小さい。したがってプロレタリアートは、ここでは、革命にとって最良の武器をももたなくてはならない。労働組合は不十分な武器であるので、労働組合は、ひとつの同盟に統一される経営内組織によってとって代られるか、もしくはそれに変えられなくてはならない。プロレタリアートは、革命を独力で遂行しなくてはならず、なんらの援軍もないのであるから、精神的、心的にきわめて高度に向上しなくてはならない。したがって、プロレタリアートは、革命に際し、議会主義を用いない方がよい。」(尚、ホルターがここで「精神の解放」ということを強調しているのは、「主体的条件」の把握において、レーニンと異なっていたことに関連している。レーニンが、「プロレタリアートの階級意識ある前衛をソビエト権力と労働者階級の独裁のがわにひきよせること」において「重要なこと――もちろんまだまだ決して全部ではないが、それでも重要なこと――はなしとげられた。いまはすべての力、すべての注意力をつぎの一歩に集中しなければならないときである」というのに対して、ホルターは「まだどこにもたしかな核はないのです。ここでわれわれが必要としているのは、まさに、鉄のように固く、水晶のように輝やく核なのである。大きな組織を建設するために、そこから着手しなくてはなりません。この点ではわれわれは、あなたが一九〇三年に立っていた段階にあるのです。あるいは、それどころか、もっと以前、イスクラ時代の段階にあるのです」という。)

〈d〉さて、以上のようなレーニンとホルターの(あるいはそれに代表されるボリシェヴィズムないしコミンテルンと、ヨーロッパ左翼の)対立を、われわれはどのように評価するのか。
 ホルターが、ボリシェヴィズムの戦術は「ロシアでは全く正しかった」が、「ここ西ヨーロッパ」では、状況が異なるといって上げている、「主体的条件」、プロレタリアート以外の全有産階級(農民、小ブルを含む)の動向、大資本の力、議会と労働組合の「反革命性」等々の問題は、たしかに状況の相違であるとともに、重要なことは、それらが、<@>ロシア革命に衝撃を受けた全有産階級の階級意識の強化、さらに社民の反動化、
ロシアとは異なる西ヨーロッパでのプロレタリアートの量的、質的比重の大きさに規定されているものとして、一定の根拠を有しているといえるだろう。さらにその背後にはより根本的なものとして、「指導者政治」「大衆の手段化」「奴隷制」変革における不徹底ないし「放置」という批判に示されているプロレタリア革命の本質の把握における対立が介在している。
 これは『共産主義における「左翼」小児病』に即していえば、それが「ソビエト」(運動・革命・権力)を前提としての、「それへの移行、あるいは接近の形態」をさがし出す死活性を強調したのでありそういうものとして卓越しているが、しかし、<@>「まず『党の独裁か、それとも階級の独裁か? 指導者の独裁(党)か、それとも大衆の独裁(党)か?』といった問題の立て方が、もう、とうてい信じられないほどの、見こみのない頭の混乱を証明している」「大衆は諸階級にわかれていること。……階級を指導するのは、普通たいていの場合、すくなくとも近代文明国家では、政党であるということ。政党は、通則として、もっとも権威のある、勢力のある、経験にとんだ、もっとも責任の重い位置に選ばれた指導者と呼ばれる人物の多かれすくなかれ一定のグループによって指導されているということ。こんなことはなにもかもイロハである。こんなことはみんな簡単なことで明瞭である。これ以外に何らかの世迷いごとがなんのために必要なのだ」と、レーニンが言うとき、「前提」とされている「ソビエト」(運動・革命・権力)それ自体の本質的性格の把握の仕方をめぐる問題が残されている。何故ならプロレタリア革命は、「近代文明国家」における「大衆―階級―政党―指導者」とは根本的に異なる諸関係の創出を意味しているのだから(だが、こういう限りでは「資本主義崩壊の前夜から、共産主義のもっとも低い段階にでも中位の段階にでもなくて、もっとも高い段階に一足とびにゆくことを意味する」立場からの「批判」として、誤まりであり、階級社会の中でのあり方、さらに「過渡期社会」でのそれが媒介されなければならないだろう)。
 
労働組合の否定を批判したのは正しいが、レーニンの場合、労働組合の評価の仕方が「新しい内容は、ありとあらゆる形態をとって自分の道路をきりひらいていく」という視点と、十月革命後のロシアにおける労働組合の位置――「労働組合によって、党は階級と大衆とにかたくむすびついており、又、これによって、党の指導のもとに、階級の独裁が実現されている」――の問題とがダブってなされている傾向がある。二月から十月へ向けてのソビエトの革命的再編の過程では、ボリシェヴィキは、主として工場委員会に依拠しつつ、メンシェヴィキやエスエル系労働組合の抵抗をうち破っていったのだが、権力掌握以降、工場委員会と「労働者管理」は、国家機関としての全ロシア労働組合中央評議会の統制下におかれていく。この工場委員会運動に対する単なる「利用主義」的あるいは「機能」論的関わりをこえた視点の欠落。
 レーニンがここで「議会への参加を拒否することだけで、自分の『革命性』を示め」そうとする「左翼」、「共産主義者の任務のすべては――おくれた人たちを説得し、彼らのあいだで活動することができるということ」にあることを理解できぬまま「頭の中で考えだした、子供じみた=『左翼的な』スローガンで、彼らと自分たちのあいだに垣をつくる」ような「左翼」、総じて「実践的な、大衆的な政治行動をおこすまでには成長していない、純粋な、抽象的な共産主義の立場」にとどまっている「左翼」に対して、プロレタリア革命運動における本質的な意味での「政治」の領域の把握をふまえつつ、種々の例、種々の言いまわしをもって「政治家の技能」、「政治」的能力の鍛え上げについて強調したのは、巨大な意義をもっている。
 たとえばレーニンについて「天才的な革命的リアリズム」あるいは「無原則的な政治的プラグマティズム」等の評価の仕方があるが、それは間違いである。レーニンが「党組織と名実ともにそなわった党指導者とがもつ意義は、とりわけ次の点にある――つまり、ある階級のすべての思考力ある代表者たちの、長い、執拗なさまざまの各方面にわたった活動にもとづいて、複雑な政治問題をはやく、正しく解決するうえになくてはならない知識、なくてはならない経験、なくてはならない――知識や経験のほかに――政治的直覚をつくりあげることである」というとき、その「政治的直覚」の前提には、「資本主義から社会主義へうつりかわるときの根本的な条件、「過程」をめぐって成立する本質的な意味での「政治」の領域の対象化があったのであり、――「実際上の政治問題にあたって世界史的な尺度でものをはかるのは、もっともおどろくべき理論上の誤ちとなる」、あるいは「古いものから新しいものへ移行するにあたっては……過渡的な『複合型』なしには済まされないということはありうることであり、ありそうでさえあることであり、疑いをいれないことでさえある」(「党綱領の改正によせて」)等々――だから「国際ブルジョアジーをうちたおすための戦争、すなわち国家間の普通の戦争のうちでもっとも頑強な戦争よりも百倍も困難で長びく複雑な戦争を遂行するにあたって、迂回政策をとり、敵のあいだの利害の対立(たとえ一時的なものにせよ)を利用し、可能な同盟軍(たとえ一時的な、不確実な、ぐらぐらした条件づきのものにせよ)と協調し、妥協することをまえもって拒絶すること、――これはとほうもなくおかしなことではないか?」「必要な場合には実践上の妥協をおこない、迂回、協調、ジグザグ、退却などをおこなう能力と、共産主義の思想にたいするもっとも厳格な献身とをむすびつけ」ること、ということも、その基礎には「戦術は、その国家(およびそれをとりまく諸国家と、世界的な規模での全国家)のすべての階級勢力にかんする真剣な、厳密に客観的な評価のうえに立ってうちたてられなければならないし、さらに又革命運動の経験の評価のうえに立ってうちたてられなければならぬ」という把握があったのである。
 以上のような、本質的な意味での「政治」の領域の対象化を通して、はじめて「大衆を本当の、決定的な、最後の、大きな革命闘争へみちびくような具体的な道、ないしは事件の特別な転換点をみつけだし、さぐりだし、それを正しく確定できること」、「あらゆる条件を考慮し、時機をただしくえらぶこと」も可能となる。「党」の固有の位置と任務、「党組織と名実ともにそなわった党指導者とがもつ意義」も又この点にかかっているのである。
 それでは問題点はどこにあったのか。
 「ソビエト」(運動・革命・権力)の実現、勝利にとって、以上のような、本質的な意味での「政治」の領域の対象化をふまえて、実際の「政治」的能力を「長いあいだの労苦によって、苦しい経験によって」たたかいとることが不可欠であることは疑いをいれない。それでは何故、その点において卓越していたボリシェヴィズムが困難な対外条件のもとにではあったが、「ソビエト」(運動・革命・権力)の本質的な性格、「これまでのすべての運動とは異なる」(『党宣言』)プロレタリア革命の固有の本質的な性格に対して、抑圧的な関係に入り(もっとも、この点については十月革命以後のロシアの諸矛盾と、内部論争のあらためての検討が不可欠であるが)、さらにスターリン主義的「政治」と「党」を生みだしたのか。
 ここにはやはり、これまで<@>、
でみたようなプロレタリア革命と「ソビエト」に関するボリシェヴィズムの理解の仕方の問題点が根底にあるだろう。その上で、しかしそのことの指摘に止まっている限りでは、のみならず、これまでみたような本質的な意味での「政治」の領域を対象化しない、あるいは否定することによって、ボリシェヴィズムを止揚できると考えることは「資本主義崩壊の前夜から、共産主義のもっとも低い段階にでも中位の段階にでもなくて、もっとも高い段階に一足とびにゆくことを意味する」ものとして、理論的に誤りであるだけでなく、現実が不可避的に生み出す諸矛盾への解決力を喪失することになるだろう。
 問題はプロレタリア革命と「ソビエト」の本質的性格に関するボリシェヴィズムの理解の仕方の問題点をこえた地平においても、その実現にとって「政治」ば不可欠であること、そして「階級社会」さらに「過渡期社会」においては「ソビエト」と「政治」の間に、対立関係、緊張関係が生み出されるのは不可避な本質的過程であることをそれとして認識すること、従って課題は、その間に一種の均衡を保持しつつ(「政治」による「ソビエト」の撲滅でもなく、又、「ソビエト」による「政治」の一挙的死滅を主観的に追求しての現実的破滅でもなく)、「ソビエト」を鍛え上げ、「政治」の死滅を準備することではないだろうか。そしてそれは「長い過程」なのである。ボリシェヴィズムは、困難な対外条件のもとにではあったが、このことに失敗し、スターリン主義的「政治」の制圧によって、敵には打倒されなかったというだけの「延命」となった。又、ロシアとは異なる道を選んだチリも、同質の矛盾を解決できぬまま衰弱し、軍部ファシストに敗北した。

〈e〉これまで見たように、ボリシェヴィズムに対するホルターの危惧、批判は、全くの「がらくた」「『左翼的』子供らしさ」ということではなく、一面において本質的批判たりえていたということができよう。
 くりかえせば「評議会共産主義者」のボリシェヴィズムないしコミンテルンに対する批判は二つの側面をもっていた。その第一は、「銀行資本は西ヨーロッパ世界を支配している。それはイデオロギー的にも、物質的にも、プロレタリアートという巨人をもっとも深刻な奴隷制に繋ぎ、すべてのブルジョア階級と小ブルジョア階級を団結させている。そこから結論されるのは、巨大な大衆が自立的行動にまで高揚することの必要である。この自立的行動は、経営内組織と議会主義の止揚とによって――革命のなかでの――のみ可能である」というような把握に示されるような問題、ホルターの同志ローラント・ホルストの表現によれば、ロシア革命とボリシェヴィキの側に立ちつつ、その上で「共産主義者のあいだの論争の中心となっているのは、ロシアと残りのヨーロッパとの間の歴史的、経済的、社会的、精神的差異は、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアなどの共産党にたいし、ロシアの例とは異なる組織形態や闘争方式を是認し要求するほど大きいものであるかどうか、それほど大きいとすればどの点でそうなのか、という問題」であった。この点で、彼らは「ロシアでは全く正しかった戦術」のコミンテルンを通じての西ヨーロッパへの適用を批判した。
 しかしここには第二に、プロレタリア革命の本質的な性格の把握の仕方についてのボリシェヴィズム批判が介在していた。「主体的条件」の立ちおくれの強調は、ただ立ちおくれとしてではなく「共産党は、精神的にも道徳的にも、ロシアの党とはくらべものにならず、どの共産党といえども、ロシアの党ほどの栄光にみちた伝統をほこることはできず、その名がすでに輝かしい才能、不屈な意志の強さ、無限の犠牲心を通じて大衆に印象づけられている指導者をみせつけることもできない。これに反して、大衆の方は、ロシアにおけるよりも自分の価直を自覚している。彼らはすでに多年の闘争をつうじて訓練をつみ、……知的にも、一九一七年のロシアの大衆よりも高い段階にあり、少なくともより大きな教養の要素をもち、より多くの精神的手段を駆使している。彼らは能動的な、機敏な精神の持ち主であり、ロシアの人民大衆が部分的には(すなわちプロレタリアートの後進的部分と貧農が)そうであったように、幾世紀もの受動性――革命と共産主義の宣伝とがはじめてそこから覚醒させた――に硬直化していない。……そして諸関係がこのように錯綜しているところでは、中部ヨーロッパおよび西ヨーロッパのプロレタリアートの独裁は、ソヴェトに組織された大衆自身によって、すなわちプロレタリア的民主主義によってはるかに多く行使され、えりぬきの共産主義的前衛の精神的、組織的支持にはより依存しない、ということもありそうである。いな、それどころか、大衆が何度もイニシアティヴをとらなくてはならず、彼らの大胆さ、彼らの高揚によって、多くの官僚的指導者の遅疑と不決断を訂正し、これら指導者を前進させる任務が大衆にあたえられる、ということもありえないことではない」というふうにとらえかえされていく。そして、そのことの方が、プロレタリア革命の本質的性格に合致しているのだとされる。「……ある状況の帰結としてロシアで形成された指導者との関係、ならびに党と大衆との関係は、ロシア以外ではほとんど再現されないであろう。」
 「……前衛の手本、権威、指導は、資本主義から共産主義への過渡期にさいしては……どうしても必要である。といっても革命の発展の最高の成果は、指導されるものと指導するものとの分離の止揚であるだろう。この分離が存在する限り、大衆は依然として自決と自治にむかっては前進せず、依然として歴史の主体であるよりもその客体なのである。」
 「共産主義者の任務とは、特別に組織された集団の手本と指導、政治的―精神的貴族制を大衆がもはや必要としない地点へ、大衆をみちびくことである。共産主義者は自分自身の死滅を準備する活動にたずさわっているのである」(ローラント・ホルスト「党と革命」)。
 みられるように、ここには、ローザ以来の伝統的なボリシェヴィズム批判が継承されており、それがプロレタリア革命の本質的性格についてのボリシェヴィズムの把握の仕方の問題点を一面において衝きえていることを否定する必要はない。
 さらに、議会、労働組合、社民等のロシアにおけるそれらとの一定の傾向的差異、西ヨーロッパにおける資本の力、全有産階級の動向、プロレタリアートの量的・質的比重の大きさの指摘等も、間違っているわけではない。にもかかわらず、以上のことの結論として主張されている「西ヨーロッパ革命の戦術」には、混乱、誤まり、未成熟さがはらまれているといわなければならない。
 たとえば西ヨーロッパのプロレタリア大衆は根深くブルジョアジーの影響下にあるという強調と、ロシアとくらべた場合の、その質的成熟度、「大衆政治」「大衆のイニシアティヴ」の主張、一方で「党」的成熟度は、一九〇三年、さらには「イスクラ」の段階にあるといいつつ、他方では「党」「指導者」の意義は、ロシアの場合より、より小さいものとなるであろうし、それはむしろプロレタリア革命の本質に合致するのだとすること、「指導者政治」を批判しつつ、しかし「小さいが純粋、強固な核、共産党」の強調等々の混乱。
 又、議会、労働組合、社民等についての静的・固定的把握、あらゆる迂回・妥協の否定、プロレタリア大衆の全くのブルジョア化という把握、現実の媒介をもたないままの、純粋の共産主義、レーテ思想の「宣伝」による「大衆の精神的解放」等々の誤まり。
 総じて「レーテ」(運動・革命・権力)とプロレタリア革命の本質的性格の把握において、ボリシェヴィズムをこえつつ、しかし、その実現にとって、本質的な意味での「政治」がもつ死活的な意義を把握できていないという点での政治(思想)的未成熟
 これらのことは「数十年のあいだに、やっと二千人の党員しか獲得しなかった政党」「たたかう党というよりも、宣伝グループの性質をおびている」(トロツキー「ドイツ共産主義労働者党の政策について」)党としてのオランダ共産党の場合は、いまだ現実的矛盾として顕在化しなかったかも知れぬが、彼らと密接な関係にあり、見解を共にしていたKAPDは、KPDからの分裂時三万八千の党員を擁し、その「一般労働者同盟」(AAU)は一時五〇万の労働者を組織し、戦後ドイツ革命期の只中にあったのである。
 ここではKAPDについて、その「一般労働者同盟」(AAU)の問題を中心に簡単にみておこう。
 「経営内組織」と、その統一的組織としてのAAUは、KAPDの路線的根幹をなすものである。詳細は分からぬが、この「経営力組織」とは、「経営協議会法」(二〇年二月)制定以前の「工場レーテ」「革命的経営レーテ」にはらまれていた本質的意義をとらえかえして路線化されたものと思われる。
 「プロレタリア革命とは政治形態の変革につきるものではなく、本質的には経済革命であり、全経済、全経済形態を根底から転覆することを任務とする」革命なのだが、ドイツでは「政治革命が街頭の蜂起で遂行されても、経済革命は遂行されえなかった」「労働者の経済的革命的闘争は経営そのものにおいてはじまる。そして、プロレタリアの革命闘争が経営においてはじまり、経営において終るとするならば、この闘争の目標は、経営そのものをプロレタリアートに奉仕させることにあるとするならば、この闘争にむかってのプロレタリアートの組織化は、経営内組織を基盤としてしかありえない。」勿論以上のことは「政治的権力を奪取する」闘いを否定ないし軽視しているのではなく、それへ向う権力基礎としての「レーテ組織」、固有の「プロレタリア組織としてのレーテ組織」(「革命的経営レーテおよび政治的労働者レーテ承認のための闘争は、一定の革命的情勢の枠内においては、必然的に資本主義の独裁に反対してプロレタリアートの独裁を樹立するための闘争に発展する」)のための「端緒」として位置づけられている。
 「経営内組織は、さしあたりまず階級闘争の組織である。それ(AAUに総括されている)は政党でもなく労働組合でもない……プロレタリアートは、ここにおいて意識的に古い社会を容赦なく打倒し、階級としての統一に組織されはじめるのである。経営内組織は、多数の大衆はプロレタリア的階級団結の意識によって一つのものとなり、ここではすでに組織的に(すなわち当然の過程として、諸関係に対応した当然の様式で)プロレタリアートの統一が準備されている。経営内組織は共産主義の生成の発端であり、経営レーテの背骨として、将来社会の、階級なき社会の基礎である」「もちろんAAUは総体としては、レーテ組織の端緒であって、完成したものではない。」
 要するに「経営内組織」とその統一的組織(「職能別に分化することなく」)としてのAAUは、さしあたり階級闘争の組織であると同時に共産主義、将来社会の「基礎」でもある「レーテ組織」の「端緒」とされているのである(AAUの構成単位としての個別「経営内組織」は「経営レーテの背骨」)。
 そして、それは労働組合の解体、あらゆる法認経営レーテへの参加の拒否、SPD、USPD、KPDへの敵対(KAPDとは「共同」)、議会への参加の反対をおこなうものとされる(それらは「レーテ思想のサボタージュを意味する」のであるから)。
 KAPDの任務は何か。「党の経営内組織との関係は、経営内組織の本質から形成される。倦むことのない宣伝という点で、KAPDは、経営内組織の中で活動する。闘争スローガンは統一されていなければならないのである。経営内のカードルは、党の活動的な尖兵となる。そのためには、党もまた、独裁を下から正当化するプロレタリア的性格を、プロレタリアの階級的表現を身につけることが当然必要となる。それと共に、党の任務の範囲が一層拡大するが、しかし同時に、最も強力なものに支えられてである。勝利とともに、すなわちプロレタリアートの権力奪取とともに、プロレタリア階級の独裁が樹立しうるのであって、単一の党の幹部やその一派の独裁ではないということを明らかにしなければならない。そしてこのことは、経営内組織が証明しているのである。」
 尚、このKAPDとAAUとが掲げている「具体的要求」(「闘争スローガンは統一」とされている)は「政治的領域」「経済・社会・文化的領域」の双方とも、プロ独下の当面の政策ともいうべき性格のものであり、いわゆる「部分的要求」「過渡的要求」的なものではない。
 以上のようなKAPDのAAU路線の問題点はどこにあったか。革命期における「工場レーテ」の本質的性格をとらえかえして、「レーテ組織の端緒」としての「経営内組織」を自らの路線の出発点にすえたことは間違いではないだろう。だが、十一月革命当時においてすら、レーテは、社民の圧倒的影響下にあったのであり(一九年以降、独立社民左派、KPDが伸長したが)、ましてワイマール共和制下の力関係のもとでは、「経営内組織」=AAUの発展のためには、そのための諸条件、過渡的課題をめぐって、幾重にも媒介項がはりめぐらされなくてはならず、労働組合、法認経営レーテへの関わり、社民との関係、議会の問題等も、その一環として、ただ否定ではない対応が迫られた筈である。
 それらを「レーテ思想のサボタージュ」として拒絶したということは、KAPDが、さきのオランダ共産主義者と同様の混乱、誤まり、政治(思想)的未成熟さのうちにあったことを示している。
 そして、それは三万八千のKAPDと、五〇万のAAUの場合には、現実的破綻として顕在化する。
 事実KAPDは、その後、二一年三月闘争等をVKPDと共同して闘いつつも、戦術をめぐって、あるいは「党否定=AAU第一主義的傾向と党組織第一主義的傾向との対立」の中で内部分裂を深め、衰退していくことになる。
 この「党かAAUか」の対立は象徴的である。さきにみた「党と経営内組織の関係」のような立て方の場合、それは現実の中では、「党かAAUか」という分岐となるのは本質的に不可避なのである。
 以上のような「レーテ共産主義者」の衰退は、次にみるVKPDとコミンテルンの「統一戦線」戦術そのものを一面的なものとしていくものとして作用することになる。

BVKPD「公開状」戦術と、二一年三月行動
 二〇年十二月に発足した三〇万のVKPDは、翌二一年一月に、ドイツ労働組合総同盟、自由職員連盟労働共同体、AAU、自由労働者同盟(サンジカリスト)、SPD、USPD、KAPDあての「公開書簡」を発表し、「単一のより緊密な共同行動」を呼びかけた。これはレーニンによって「『公開状』は、労働者階級の多数者をひきよせる実践的措置の最初の行為として模範的なもの」「まったく正しい戦術」として、高く評価されたものであり、後のコミンテルン「統一戦線」戦術の先駆となっていく。
 この「部分的要求」「過渡的要求」をもって、諸労働者組織に共同行動をよびかけるという戦術の発端は次のようなことにあった。「共産主義的諸力の最初の動員は、ドイツではプロレタリアート独裁、つまりレーテ支配のスローガンのもとに自然的に発生した……これらのことが起ったのは、ブルジョアジーの支配が外面的に崩壊し、彼らが全ての支配の手段を奪われ、また労働者レーテが唯一の統治機関である時代であった。労働者大衆を自らの力を利用できるように教育する必要があったし、つまり煽動と宣伝によって虚構のレーテ制度の時代から真のレーテ支配の時代へと移行することができると思われた。しかしながら、ブルジョアジーは多数派および独立派の社会民主党の助けをかりてその支配を再建し、国民議会を召集し、労働者・兵士レーテを厄介ばらいしたとき、共産党は次の問いに直面した。これからどう闘うのか? ドイツ労働者階級の大多数が未だに独裁をその目標におかず、それどころかプロレタリアのレーテ権力の敵対者でさえあることは明らかだった。今や共産党は、その煽動と宣伝が、つまり大衆のレーテ独裁への移行が熟するまで闘争をじっと待つべきなのか、党は少数派として蜂起によって独裁を獲得しようとすべきなのか(これら二つの傾向は、最終的にKAPDに集約された)、それとも第三の道、つまりプロレタリアートの個別的な苦難への抵抗だが、現代では鋭い闘争となるプロレタリアートの部分的運動との結合の道を歩むのか?」(パウル・ブレーマー「統一プロレタリア闘争戦線の形成」)。
 ここにはっきり示されているように「出発点」は、「レーテ」(連動・革命・権力)をふまえつつその直線的な実現、勝利が不可能となった段階での「迂回路」の問題をめぐっている
 「プロレタリア大衆の最も初歩的な日常的欲求から出発したこれらの要求は、行動の諸要求である。……要求の各項目が実現されれば、全体として要求は革命的である。それは資本主義社会の改良ではなく、その克服なのである。それは、まだ共産主義的でない大衆の行動要求であり、共産主義者へと転化する大衆の行動要求であり、共産主義者へと転化する大衆の過渡的要求となる」(これらが、ドイツ資本主義の危機、独立社民党の分裂に示されるプロレタリア大衆の左傾化の中で提起されたことに留意)。
 さらに、この戦術が「来るべき独裁をめぐる闘争までのその間は、煽動、宣伝および革命的少数派の組織化でもってうめあわせる」ということになるKAPDの、共産党の任務、活動性格の把握の仕方に対する批判、「精確なわれわれの独自の路線、つまりわれわれの戦術的方法、共産主義的闘争の方法」の形成としても自覚されていることに注意しよう。そしてそれは「どのようにして労働者階級を革命闘争に結集するのかという問題」をめぐっていたのである。
 この「公開状」戦術は、たとえば「社会民主党のあらゆる中央機関によって拒否されたにもかかわらず、社会民主党の地方機関の採決にさいして九〇パーセントまでが、公開書簡を基礎とする共同闘争にたいし賛成したといわれている」(ブレヒトハイム『ヴァイマール共和国時代のドイツ共産党』)というように、プロレタリア大衆の間に、無視しえぬ反応を生みだした。だがこのパウル・レーヴィ指導下の「公開状」戦術は、その成否の結果をみるまえに、二一年三月行動によって、ひとまず後景に退くことになる。
 ここでは、この「公開状」戦術が、その基本的意義と同時に、新たに生みだした問題点と思われることにふれておこう。それは言うまでもなく、この「公開状」戦術と「レーテ」(運動・革命・権力)の関係である。
 二つの問題があったように思われる。その第一は、「レーテ」へ向けての「迂回路」としての共同行動の追求が、事実上KAPDが言うような「レーテ思想のサボタージュ」となっていく傾向であり、その理論的根拠としての「レーテ」の本質的性格についての理解の仕方の問題点である。すでにみたように「公開状」戦術の路線的先駆としてあった「共産主義の原則と戦術に関する指針」においても「権力奪取以前にすでに、既存のレーテ組織の再編と新しいレーテ組織の創出に最大の重点がおかれなければならない。……それは、その存在を大衆の革命的意志と革命的行動にのみ負っているのであり、議会がブルジョアジーの権力の表現であるのとまさに同じく、プロレタリアート権力のイデオロギー的組織的表現なのである」ということが前提となっているが、しかしすでにKAPDの「経営内組織」路線については「特殊な組織形態を通してのみ大衆運動をつくりだすことができるというような、したがって革命は組織形態の問題であるというような見解は、小ブルジョア的ユートピアへの後退であり、……サンジカリスト的主張」であるとして退けられている。又、カップ一揆粉砕闘争に際してのパウル・レーヴィの、KPDの「セクト」的対応に対する、「過程のなかで必要なのは具体的なスローガンである。その時点に何をなすべきかを大衆に語ること! むろんスローガンは高度化していくが、しだいにだ。レーテ共和国が来るのは最後であり、最初ではない。私の考えては誰もいま工場レーテの選挙を問題にすまい。……『レーテ共和国』や『レーテ総会』は、その実現までストを続けるべき要求ではない。それに、そもそも敵への要求ではない。……当面のスローガンはただ一つ、プロレタリアートの武装である」(「KPD中央委への手紙」)という批判や、「公開状」戦術での「共同行動を通して労働者大衆が一つの潮流になれば、自然に権力的地位の敵対者と闘うようになるにちがいない。闘争がそこに集中される二つの主要な権力的地位は、ブルジョアジーの自警組織の武装解除およびプロレタリアートの武装と、生産の統制をおこなわなければならない経営レーテへのプロレタリアートの組織的総括とである」(パウル・ブレーマー)という見解(これらはその限りては間違っているわけではない)が、傾向的にはらんで来ている問題点である。それはKAPDの「レーテ組織」論と対比すれば明らかとなるのだが、現在の大衆運動の量的発展は、ひとつの質的飛躍を生みだすだろう、それによってはじめて「箱庭」ではない現実的力をもった「レーテ」が可能となるのだという発想である。「量的発展が、質的飛躍を可能とするためには、量的発展の過程にすでに質が萌芽的にはらまれていなければならない」という把握の欠如ということであるか。
 さらに、この時期にはすでに「レーテ組織」の本質的性格の把握の仕方をめぐって、コミンテルン第二回大会での「労働者評議会の建設の諸条件に関する指針」「労働組合運動、工場委員会と、コミンテルンに関する指針」が、直接、間接に影響して来ていることに注意しよう(その問題点については、ソビエト運動、行動委運動についての別提起でふれられているので省く)。
 第二に、「公開状」戦術の推進によって「レーテ」(運動・革命権力)とその「迂回路」との間に、本来的に生み出される(単に何らかの誤謬の結果ということではない)「対立的」矛盾、固有の「ジレンマ」が、新たに解決すべき課題としてあらわれたということである
 言いかえれば、「レーテ」の本質的性格が仮りに正しく把握されていたとしても、「革命的大衆化」がある程度、無媒介的に実現されていく直接的な革命的昂揚期以外においては、そのための「迂回路」が問題となり、それは「レーテ」との緊張を不可避的にかかえ込むということである。
 さきの「量的発展が、質的飛躍を可能とするためには、量的発展の過程にすでに質が萌芽的にはらまれていなければならない」という弁証法的命題が真理だとしても、そのことの指摘によって、問題が解決されるわけではなく、解決へ向けての出発点に立ったというにすぎない。何故なら、「萌芽的な質」が、「飛躍」するためには、「量的発展」を不可欠としており、ここにおいて再び、双方の関係のうちに、「矛盾」、緊張が生み出されるからである。
 何故この第二の問題についてふれるかというと、それは「統一戦線」戦術は、何らの誤まりによる「左右へのブレ」「ジグザグ」の根拠が明らかとされれば(勿論そのことは必要だ)、今度はうまくいく、というようなことではなく、本来的に新たな「矛盾」、緊張を解決すべき課題としてはらみ、つきだすのだということをハッキリさせるためである。「左右へのブレ」の根拠も又、単純素朴な誤りということではなく、以上のこととの関係で生み出されるのである。しかし、このことについては後にあらためてみることにしよう。
 二一年三月のVKPD「三月行動」は、この「公開状」戦術をひとまず中断させることになる。パウル・レーヴィ、ドイミッヒ(「革命的オプロイテ」出身)指導部辞任後のブランドラー、タールハイマー指導部のもとに闘われたこの「三月行動」は「党はゼネストのスローガンを掲げたが工場は動かなかった。そこで工場から労働者を駆りだすために失業中の共産党員が派遣された。警察にたいして向けられるべき蜂起は、労働者と失業者がなぐりあう乱闘にかわった」(ボルケナウ『世界共産党史」)というような光景を含みつつ敗北に終り、「党は約三十五万の党員をもって行動に突入したが、闘争中とその後の数週間に党員数は十五万に減退した」と言われている。
 この「三月行動」は「先進国」革命における目的意識的な蜂起の経験として、教訓化すべき諸点が少なくないのであるが(たとえば蜂起の技術的準備、大衆運動と蜂起の関係、党組織と軍事組織の関係、「権力基礎」はどのように準備されたか、等々)ここでの課題ではないので省く。
 この「三月行動」は、KAPD排除後のVKPDに再び「左右対立」が生み出されたことを示しており、「左派」の理論的根拠となったのは「攻勢理論」であった。この問題についても省くが、ここでの課題との関係で言えば、コミンテルンないしボリシェヴィキ内部のブハーリン、ジュノヴィエフらの「攻勢理論」とVKPD(「三月行動」ではKAPDと共同闘争本部を設置)その他の西ヨーロッパの共産党内部のそれとは、微妙に異なった性格をもっていたように思われる。
 後者の場合それは、さきにみたホルター、ロルストさらにパンネクークらオランダ共産党左派以来の「ここ西ヨーロッパにおけるプロレタリア革命の直接的困難性」という問題意識に関連していた。その本質的成熟度においてロシア革命をこえてプロレタリア革命の本質的性格を実現しうる巨大な可能性をもつ西ヨーロッパ・プロレタリアートは、しかし直接的には高度に発達した資本の分業秩序の中に深く包摂されており、ブルジョア・イデオロギーに根強く浸透されている状況にある。この状況をどのように打ち破るかということをめぐって、「レーテ共産主義」と、いわゆる「一揆主義」が生み出される(KAPDはこの双方の要素を未分化のまま含んでいた)。KAPD排除後のVKPDにも、同様の問題意識が存続していたのであり、「レーテ」(運動・革命・権力)のゆきづまり、KAPDとの分裂、パウル・レーヴィ指導部の「公開状」戦術への不満という状況の中で、それは「攻勢的戦術」というかたちをとって噴出したのである。すなわち「攻勢的戦術」は単純素朴な「一揆主義」ということではない、ルカーチによれば「どうすれば、VKPDのイニシアティヴによる自立的な行動を通して、イデオロギー的な危機が、プロレタリアートをつつんでいるメンシェヴィキ的惰眠が、革命的発展の行きづまりが、克服できるのか」という問題に関連していたのである。
 初期ルカーチのたとえば「大衆の自然発生性党の行動性」(二一年五月)は、こうした視点からの「攻勢的戦術」の評価にあてられている(尚、西ドイツ新左翼のドゥチュケらは、ポリシェヴィズム批判の文脈の中で、その再評価をおこなっていた)。
 「VKPDの新しい攻勢戦術が正しいか誤っているかという議論は、三月行動の指導が正しかったか誤っていたかという議論とは切りはなしたほうがよいかも知れない」と立てるルカーチは問題の本質は「プロレタリア革命の焦眉の段階における党と大衆との組織的精神的および戦術的な関係はどうあるべきか」ということをめぐっているのだとする。「すなわち、党と大衆の関係は、革命過程全体をつうじてかわらないのか、それとも、この関係もまた一つの過程なのであって、過程全体の弁証法的な進展と急変を能動的にせよ、受動的にせよともに体験せざるを得ないものなのか? これこそが討論の中心問題なのだが、右派は――大部分は遠まわしに――これに対して否と答え、左派は――しばしば充分に明瞭とは言えないやりかたで――然りと答える。」
 ルカーチは、ここでは「左派」の側に立っている。「右派」の根底にあるのは「経済的過程やしたがってまた政治的およびイデオロギー的過程は〈自然法則的〉な必然性をもっているという、例の古典的な見解である。」それは「資本主義社会については無条件にあてはま」るだろう。この見解から「大衆行動の〈不可避的〉な昂揚」という把握もでて来る。問題は「革命期の初期、つまり自然発生的で初歩的な時期には疑いもなく大衆行動がそなえていたこの〈不可避的〉な性格を、大衆行動は過程全体にわたって保持するものなのか、それとも革命の発展につれてこの点に決定的な変化を生じるものなのか」という点にある。
 「だが、この〈自然法則〉なるものは、ただ危機を規定するだけであり、この危機が(これまでのもろもろの危機と同様)資本主義の思惑どおりに解決される、などということを不可能ならしめるだけにすぎない。もしもこの危機がさまたげられることなくとことんまで進行するならば、別の解決もありうるのだ。すなわち『あい闘う両階級がとも倒れになる』ということ、野蛮の状態に逆もどりしてしまうということである。
 つまり、資本主義的発展を支配する〈自然法則〉は、ただその社会を最後の危機にひきいれることができるだけであって、危機からつれ出す道を示すことなどできないのだ、革命時代のこれまでの経過をとらわれない目でみるものなら、革命とその勝利を妨げてきたもっとも本質的な、だが理論的にも実践的にももっともわずかしか予見されなかった障害は、ブルジョアジーの強さではなく、むしろプロレタリアート自身のなかにあるイデオロギー的な障害物のほうである、という認識に目をとざしてしまうことはできないだろう。」
 「だがしかし、こうした事態からただ単に、一貫した革命的意志がプロレタリアートに欠けているということからそのまま客観的な革命状況は存在しないのだという結論をひき出してのほほんとしているメンシェヴィキ的なイデオロギーに反対するための、戦術的な結論をひき出すだけであってはならない。……すなわち、今述べたような、メンシェヴィズムによって反革命的な徴候と解されているこの事態をこそ、問題にし、プロレタリアートのこの――率直に言うことにしようではないか――おどろくべきイデオロギー的危機の原因を追求しなければならない。」
 結論的に言って、ルカーチは、革命期においては、この「イデオロギー的危機」が、「自然法則的」=「不可避」に克服されることはありえないとする。「……重要なことは、この数年間の革命の経験が革命的な自然発生性の限界というものをまざまざと明らかにしてみせたということなのだ。すなわち、それらの革命的な大衆行動は、途方もないほどの量的な昂揚をともなっていたとはいえ――それ自体としてみれば――結局は革命前の時代のものときわめてよく似た性格をおびていた。つまり、それらの大衆行動は、ほとんど例外なく、ブルジョアジーの経済的な(あるいはめったに政治的ではない)攻撃にたいするひとつの防御として、自然発生的に勃発し、直接の目標が達成されたかにみえ、あるいは見込みがないかにみえるや、自然発生的に終熄してしまう。すなわち〈自然法則的〉な経過をちゃんと保持していたというわけである。」
 「資本主義社会」あるいは「革命前の時代」では「無条件に」正しいプロレタリアートの「自然法則的」=「不可避的」成長、前進ということが、何故「革命の時代」には即あてはまらぬかと言えば、後者において要請されているのは、ひとつの「飛躍」=「必然の王国から自由の王国への飛躍」なのだからである。
 ここにおいて「ひとつの決定的な役割、いやむしろ決着をつける役割を党がになわなければならないということは、共産主義者のあいだではいまや疑うべくもない。」ここにおいて「党と大衆の関係」は変化する。「ここにこそ〈公開状〉の戦術路線をVKPDの唯一の戦術とすることの大きな危険性がある。」何故なら「公開状」戦術は、この「飛躍の過程」が、党に課す「焦眉の」課題の性格を自覚的なものとしては対象化できていないからである。「もしも革命の発展が泥沼におちこむ危険にさらされてはならないとすれば、これ以外の脱出口が見出されねばならない。つまりそれは、VKPDの行動、攻勢である。そしてこの攻勢とは、つぎのようなことを意味する。すなわち、正しい瞬間に正しいスローガンをかかげて始められる党の自立的な行動によって、プロレタリア大衆を惰眠からよびさまし、彼らのメンシェヴィキ的指導者たちから彼らを行為を通して(つまり単に精神的にではなく組織的に)ひきはなし、プロレタリアートのイデオロギー的危機の解きがたい結び目を行為の力でたち切ること。」
 ルカーチについては、もっと全般的な検討が必要であり、「大衆の自然発生性、党の行動性」のみからの、しかもこれまでのような要約からの裁断は、不正確ないし誤解の余地を残しかねないが、しかしそれも省いて、ここでは次の諸点の指摘に止める。
 その第一はルカーチが、革命の時代は、ひとつの「飛躍の過程」であり、革命的自然発生性は「自然法則的」=「不可避的」に、それをなしとげることができるわけではなく、党は「自立的な行動」「行為」によって、プロレタリアートを「惰眠からよびさまし」、「真実の階級意識」を獲得できるような「相互作用」に入らなければならないというとき、「革命的自然発生性」と「真実の階級意識」との関係はどのように把握されているのかという問題である。ルカーチは、この問題を「防御」と「攻勢」(「革命的イニシアティヴ」)という概念によって説明している。「防御とは結局のところ党の生命の表現がたとえきわめて強固な革命的感情と意識とによってそれが担われているとしても、党そのものから、その真の出発点を得ているわけではなく、ブルジョア的ないし社会民主主義的反革命の出方によって規定されている」のに対して、「攻勢」とは「単に――本能的な――革命的行動をおこなう用意が感覚的にできているだけでは充分でないばかりか、われわれは資本主義の最後の危機のなかにいるのだという明確な見通しがあっても、まだ充分ではない。いまこそ行動すべき瞬間なのだ、われわれは決断のまっただなかにおかれており、ひとりひとりの人間の献身と、犠牲的精神と、完全な服従とが革命の運命を左右する問題となっているのだ、ということを揺ぎなく知っている、きわめて高度な階級意識を前提」とした行動なのである(「革命的イニシアティヴの組織的諸問題」)。
 すなわち「必然の王国から自由の王国への移行の過程」においては、「この過程のはじまりが資本主義の最後の危機の時代とかさなる」革命の時代においては、後者的な「精神的問題」が、死活的となるのだが、プロレタリアートのそこへの飛躍は「自然法則的」=「不可避的」に可能となるわけではなく、「この一年の種々の体験はむしろ、ブルジョアジーの経済的危機と平行してプロレタリアートのなかに深刻なイデオロギー的危機がおこったこと、この危機の精神的および組織的表現がまさにメンシェヴィズムなのだということを、示している」(「コミンテルン第三回大会を前にして」)。
 この「危機」の突破は、たとえばロシア革命における「平和・パン・土地」のスローガンによる権力奪取への飛躍を想定した戦術によって可能となるのではない。「この権力奪取は、きわめて特殊な状況のもとでなされたものであって(小ブルジョア階級との関係、平和への意志、農業問題)、理論的にも、戦術的ないし組織的にも、中部ヨーロッパや西ヨーロッパにそのまま当てはめることなどできない。」
 しかし、ルカーチがこのように言うとき、強調される「きわめて高度な階級意識」は、抽象的な、無媒介的、無規定なものとなってしまうのではないのか。この限りては、「飛躍」への諸契機は見失なわれ、原理的にも不可能となってしまうのは当然である。だが「階級意識」とは、「党そのものから、その真の出発点を得ている」などというものではなく、対象との関係におけるそれであり、まさに「規定されている」ものなのである。
 このことを認めることは、なにも「自然法則的」=「不可避的」大衆行動の昂揚論に屈服することを意味するわけではなく、「外部のメンシェヴィズム」「内部のメンシェヴィズム」の誤まりは、もっと別のところにあったのだ。
 第二に、以上のようなルカーチの「階級意識」論の問題点は、彼の「党の自立的な行動」「行為による突破」「実地教育」をも規定していくことになる。「革命的自然発生性」と「真実の階級意識」の関係を、このように押える限り、党の任務、「戦略・戦術」の根拠は立てられないのであり、従って、党は、「真実の階級意識」そのもの、その化身であり、その「行動」「行為」によって、プロレタリアートを「実地教育」するなどということになってしまうからである。
 (しかし、このように言うことは、ルカーチについての誤解であるかも知れず、もっと全般的な検討が必要である)。
 以上のようなルカーチの主張が、レーニンによって「マルクス主義はここでは純粋にうわべだけのとらえかたしかされていない。防御戦術と攻勢戦術の区別など、頭の中のでっちあげである。厳密に規定された歴史的な状況の現実的な分析が欠けている。もっとも肝心な点(ブルジョアジーが大衆に影響をおよぼす場となっているあらゆる活動分野や機関を獲得する必要があるということ、その獲得の仕方を学びとる必要があるということ、等々)が考慮されていない。まぎれもない、『左翼』小児病の徴候……」と一蹴されたのも無理はないだろう
 さて、VKPDの、この「三月行動」に対して、同年六月に開かれたコミンテルン第三回大会は次のような総括的評価を下した。
 「三月行動は、中部ドイツのプロレタリアートに加えられた政府の攻撃によって、VKPDに強要された闘争である。創立以来の最初のこの大闘争においてVKPDはいくつかの誤りをおかした。そのもっとも重要なものは、党が闘争の防衛的性格を明確に強調しないで、攻勢への合図を与えることによって、プロレタリアートの無法な敵、すなわちブルジョアジー、社会民主党、独立社会民主党にVKPDを、一揆の陰謀者なりとして非難する機会を与えたことである。そしてこの攻勢を現情勢におけるVKPDにとっては主要な闘争方法であると主張した若干の党同志によってこの誤まりは、さらに悪化された。党機関紙と党委員長同志ブランドラーはこの誤まりに反対した。
 共産党インターナショナルは、VKPDの三月行動をもって一歩前進なりと考える。それはブルジョアジーに対する数十万のプロレタリアの偉大な闘争であった。この中部ドイツの労働者防衛の指導権を引き受けることによって、VKPDはそれが革命的ドイツ・プロレタリアートの党であることを示した。もし党がその闘争スローガンを現実の情勢によりよく適応させ、より徹底的に情勢を検討しその行動を貫徹するためのより大きな程度の一致をもつならば、VKPDは将来その大衆行動をより成功的に実行しうる立場にあるだろうと大会は考える。
 闘争の可能性を充分検討するにあたってVKPDは、困難を示すような事情と意見に注意深く留意し、行動に反対して提起された理由についてきびしい調査をおこなわなければならない。がしかし党の機関によって一たび行動が決定されたならばすべての同志は党の決定に従い、その行動を実行しなければならぬ。行動についての批判は行動自体が終った後に始められ、党の組織と機関のなかだけで行なわれ、また階級敵との関連における党の地位が考慮にいれられなければならぬ。パウル・レーヴィはこうした党規律の明白な要求と党批判の諸条件を無視した。従って大会は彼を党から除名することを確認し、共産党インターナショナルのいかなる加盟員も彼に協力することを許し得ざるものと考える。」
 すなわち、ここでは「三月行動」は「一歩前進」であったが、情勢の分析と、戦術・闘争スローガンの設定における誤まりがあり、「攻勢理論」はそれを助長したとされている。
 ルカーチが危惧したように「攻勢戦術」の問題が「三月行動の指導」の問題ときりはなされて、それとして検討され、評価されることはなかったのである。勿論、この両者を全くきりはなすことはできず、「攻勢戦術」が、いかなる情勢の分析にもとづく、いかなる中身の戦術、闘争スローガンであったかを問われるのは当然であり、その限りでは、それは厳密な評価に耐え得るシロモノではないというのは事実である。
 しかし、すでにみたように、この「攻勢戦術」はロシア革命の場合とは異なる西ヨーロッパでのプロレタリア革命の主客の条件、その特殊な困難性と巨大な可能性をいかに解決していくかをめぐる格闘の中での産物だったのであり、その限りでは「レーテ共産主義」論とウラハラの関係にあったのである
 たとえば、「必然の王国から自由の王国への移行の過程」「飛躍の過程」を、プロレタリアートの革命的自然発生性は、「自然法則的」=「不可避的」にくぐるわけではないと強調するルカーチにとっても「だが資本主義をイデオロギー的に克服していく方向でプロレタリアートのなかに働いている力を見のがしてしまうとしたら、これまた同じく致命的だといわねばならない。たとえば労働者評議会が現に存在しているということだけで、それはプロレタリアートの階級意識がここでまさにかれらの指導者層のブルジョア性を勝利的に克服しようとしていることの一証左である。……」というように、「レーテ」の本質的意義は、前提だったのであり、その上で「革命的労働者の意識状態をすらもプロレタリアートの真の階級意識から隔てているその距離を看過するとしたら、それこそ致命的だろう」というふうに「攻勢戦術」が意義づけられていったのである。
 だがKAPDの「レーテ共産主義」も、KAPD、VKPD「左派」の「攻勢戦術」も、すでにみたように「レーテ」(運動・革命・権力)実現にとっての、本質的な意味での「政治」の領域を対象化しえていず、従ってプロレタリア革命の「戦略・戦術」を鍛え上げていくことに失敗している。『共産主義における「左翼」小児病』等において、レーニンとコミンテルンが、鋭く指摘したのは、まったく正当であり、大きな前進であった
 だが同時に問われるのは、その指摘、批判が「レーテ共産主義」と「攻勢戦術」がくりかえし生み出される根拠、すなわち西ヨーロッパにおけるプロレタリア革命の直接的困難性とそこにはらまれている巨大な可能性をいかに解決し、実現していくかという問題に対して、真の解答たりえたかということである。
 次にそのことをみていこう。

(2)〔コミンテルン〕

@ コミンテルン第三回大会
 ここではコミンテルン第三回大会(二一年六月―七月)の全般的な評価に入ることはできず、大会を受けて、同年十二月に、コミンテルン執行委員会によって採択された「労働者統一戦線と第二、第二半、アムステルダム各インターナショナル所属労働者ならびにアナルコ・サンジカリズム諸組織支持労働者への態度とに関する指針」(以下「統一戦線の指針」と略す)に焦点を絞ってみていくことにする。
 周知のように、第三回大会は「大衆の中へ!」を集約的スローガンとして打ち出した。「共産党インターナショナルが今日当面するもっとも重要な問題は、労働者階級の多数に対する支配的影響力を獲得し、彼らのうちの決定的な層を闘争のなかへ持ちきたすことである。」
 そして、その前提にあったのは「攻撃の自然発生的性格、その目的と方法の著しい不正確さ、支配階級の間によび起した極端なパニック、これらによって特徴づけられる戦後革命運動の第一期は実質的に終結したようにみえる」という情勢の評価であった。レーニンは、それを「一種の均衡」と表現している。ここから「部分的闘争と部分的要求」「統一戦線」の必要性が導き出されている。だがコミンテルン第三回大会の意義をこのように(「一種の均衡」―「大衆の中へ!」―「部分的要求」「統一戦線」)要約することは、一面的な評価となってしまうだろう。
 この大会の正確な評価のためには、トロツキーの「革命的戦略の学校――コミンテルン第三回大会」(二一年七月にモスクワ党組織の一般党員集会で行われた演説)をみることが不可欠だと思われる。
 トロツキーはそこで次のように言っている、「一九一九年の一月と三月に、ドイツ労働者が局地的に蜂起にたち上って敗北を喫し、最良の指導者を失ったとき、われわれは、われわれ自身の経験を想起しながら、これはドイツ共産党の『七月』だとのべた、……だがドイツでは、七月のつぎに来るものは決して『十月』ではなくて、一九二〇年三月だった。つまり、ほかのより小さな局地的な敗北のことはさておいても、新たなる敗北であり、ドイツ労働者階級の最上の地方の指導者にたいする組織的な虐殺だったのだ。一九二〇年三月の運動と、その後の一九二一年三月の運動とを観察するとき、われわれはつぎのように言わざるを得ないだろう。『いや、ドイツには、余りに多くの「七月」がある。だが、われわれの望むところは、まさに「十月」なのだ』。しかり。必要なのは、ドイツの十月、すなわちドイツ労働者階級の勝利を準備することなのだ。そして、革命的戦略の問題が、十分な規模でわれわれの前に姿をあらわすのは、まさにこの点なのだ。
 ここには、ボリシェヴィキが、ヨーロッパ革命への期待と失望の交錯の中から、あらたな決意をもって、コミンテルン第三回大会で、何を課題としようとしたかが、よく描き出されている。
 トロツキーがここで強調しているのは、「綱領」とは相対的に区別されるべき「戦略・戦術」の独自の対象領域、固有の位置=意義の問題であるように思われる。
 勿論「戦略・戦術の技術、革命闘争の技術は、経験を通じ、批判と自己批判を通じてしか、これをマスターすることはできない。」だがそのためにも、その独自の対象領域がハッキリ把握されていなけれはならない。
 たとえば、「綱領」について、レーニンは次のように言っている。「革命の歴史の曲折がどんなに大きいものであるかをわれわれは経験によって知っている。……歴史のこのジグザグ、この曲折のなかで迷わず一般的な見通しを保つためには、……後退や退却や、一時的敗北の時期に、すなわち歴史または敵がわれわれをうしろへ投げもどすときに迷わないためには」、「綱領は科学的な土台のうえに据えられなければならないという、すべての人の認めるマルクス主義的命題から出発しなければならない。共産主義革命はどのようにして起るのか、何故それは不可避なのか、その意義、その本質、その力は何にあるのか、それは何を解決しなければならないのか、これらのことを綱領は、大衆に説明しなければならない。」「マルクス主義の綱領は、絶対正確にたしかめられた事実から出発しなければならない。わが党の綱領の力はこの点にのみある。この綱領は、革命のあらゆる曲折を通じて確証されて来たのである。……」
 たとえば以上のような「綱領」の位置=意義と相対的に区別されるべき「戦略・戦術」の独自な対象領域は「歴史のこのジグザグ、この曲折」「後退や退却や、一時的な敗北」にかかわっているといえるだろう。そして「戦略・戦術」の問題は、とりわけ革命期においては死活的な課題となるのである。
 「ヨーロッパにおいてばかりでなく、全世界を通じて労働者階級に与えられた課題は、十分に考えぬかれたブルジョアジーの反革命戦略に、彼ら自身の同様に徹底的に考えぬかれた革命的な戦略を対置させることだ。このためにはまず何より、単にブルジョアジーが歴史によって滅亡を宣告されているという理由だけでは、決して彼らを自動的に打倒することはできないだろうということを理解することが必要だ。政治闘争というきわめて複雑な領域の上では、われわれは、一方の側には、力と財源を手にしているブルジョアジーを、これと対立する側には、さまざまな層とムードと発展段階にある労働者を擁し、労働者大衆に対する影響力を手に入れるために他の政党や団体を相手にして闘っている共産党をもつ労働者階級を見出す。この闘争のなかでは、現に着実にヨーロッパの労働者階級の先頭に到達しようとしている共産党は、ブルジョアジーを打倒するための有利な瞬間が来るまで、あるいは攻勢にで、あるいは守勢に立ち、たえずその影響力をかため、新しい地点を征服しつつ、機動しなければならない。
 くりかえし述べさせていただきたいのだが、これはまことに複雑きわまる戦略的な課題なのであって、さきの世界大会はこの課題を全面的に提起したのだ。こうした立場からするならば、コミンテルンの第三回大会は、革命的戦略の最高の学校だと言ってよろしいだろう。」
 初期コミンテルンの「統一戦線戦術」もまた、以上のような課題のような課題の一環として提起されたのである。すでに第三回大会で採択された「戦術に関するテーゼ」(ラデック提案)において、その大要は示されていたのだが、コミンテルン執行委員会は「左派」の反対をおしきりつつ、あらためて「統一戦線の指針」(トロツキー起草)をもって、その定式化に入る。
 この「統一戦線の指針」は、概略次のような構造をもっていた。
 まず「共産主義インターナショナル全体ならびにその個々の支部が、社会主義的統一戦線のスローガンへの態度を定式化しなければならない一般的諸条件」は、以下のように押えられている。
 「国際労働運動は現在、特異な過渡的段階を経過しつつあり、この段階は共産主義インターナショナル全体ならびにその個々の支部を新しい重要な戦術問題に直面させている。」
 「経済的世界危機の尖鋭化」―「労働者に対する資本の体系的攻勢の強化」―「半年前には、ヨーロッパとアメリカの労働者の一般的な右施回について語っても、ある程度までは正しかったとしても、現在では逆に、左旋回の開始を疑いもなく確認することができる」
 「他方、資本の攻勢強化の影響のもとに、労働者のあいだには、文字どおり抑えきれない統一への志向がめざめている。この志向は、共産主義者にたいする広範な労働者の信頼がしだいに強まるにつれて強まっている」
 「これらの労働者大衆は、自分たちの計画や志向を十分明らかには定式化していないが、その新しい気分は、大筋としては、統一戦線を形成して、第二およびアムステルダム・インターナショナルの諸党や労働諸団体に、資本攻勢にたいする共産主義者との共同闘争を展開させようという願望に由来するとみなすことができる。そのかぎりでは、この気分は進歩的である。本質的には改良主義への信頼は掘りくずされている。労働運動がいまおかれている全般的情勢のもとでは、どのような真剣な大衆行動も、たとえそれが部分的要求から発しているとしても、より全面的、より基本的な革命の諸問題を不可避的に日程に上らせるであろう。新しい労働者層が自分の経験を通じて、改良主義と妥協主義が幻想であることを確信するときにはじめて共産主義的前衛は勝利することができる」
 「新しい自覚的な生活にめざめつつあるが、経験の乏しい労働者層のあいだでは、統一戦線のスローガンは実際に、資本家の進撃にたいし被抑圧階級の諸勢力を団結させるもっとも誠実な努力であるとしても、第二、第二半、アムステルダム各インターナショナルの指導者や策動家どもにとっては、この統一のスローガンは、労働者を欺いて、新しい手口で階級『協調』の古い道に誘いこもうとする試みなのである」
 任務は何か。
 「このような情勢に直面して、共産主義インターナショナル執行委員会の見解は、第三回世界大会のスローガン『大衆のなかへ』と、共産主義運動の全般的利益とは、各国共産党および共産主義インターナショナル全体にたいし、労働者統一戦線のスローガンを支持することと、この問題でのイニシアティヴをひき受けることを要求している、というものである。もちろん、各国共産党の戦術は、それぞれの国の諸関係との関係で具体化されなくてはならない」……各国への指示。
 その際「共産主義者は、行動の諸原則に従うものであるとともに、その行動の前後にとどまらず、必要なときには行動のさい中でも、労働者階級のすべての組織の政策についての意見をどの組織にたいしても例外なしに表明する権利と可能性とを、その際無条件に保持しなくてはならない。この条件の放棄は、どのような事情があっても許されない」「各国共産党の絶対的な自主性と完全な独立性」の保持。
 そして、この「労働者統一戦線」は単に大衆運動、大衆組織次元に止めるものではなく「共産主義インターナショナルの個々の支部と第二および第二半インターナショナルの諸党および労働者諸団体との協定を認めるとともに、当然のことながら、インターナショナル次元での同様の協定を拒否するものではない」
 「共産主義インターナショナルのあれこれの実践的提案が、第二、第二半、アムステルダム各インターナショナルの指導者によって拒否されることは、大衆のうちに深く根ざし、われわれが体系的・不可避的に発展させなくてはならない統一戦線戦術を、放棄させる理由とはならないであろう」「共同闘争の提案がわれわれの相手方によって退けられる場合には、大衆がそのことを経験し、だれが労働者統一戦線の真の破壊者なのかをそれによって学ぶことが必要となる。提案が相手方によって受け入れられる場合には、闘争を一歩一歩深化させ、それを最高の量にまでたかめるよう努力しなくてはならない。どちらの場合も、他の諸組織との共産主義者の交渉をつうじて、広範な労働者大衆の注意をひきつけることが必要である。というのは、革命的な労働者統一戦線のための闘争のあらゆる段階で、労働者大衆の関心を集中させることが必要だからである」
 しかし、この「統一戦線戦術」は、共産党にとっても「諸刃の刀」である。
 「現在、かならずしもすべての共産党が十分に建設され、強大化しているわけではないし、中央派的および中央派的イデオロギーと完全に絶縁しているわけではない。ゆきすぎる場合、すなわち、統一的な無定型のブロックへの共産党や共産主義グループの解消を事実上意味する傾向に流れる場合がありうるのである。共産主義の事業を成功させるよう新しい戦術を実行するためには、この戦術を実行する共産党が強固に団結していること、その指導部が思想的明確さの点で傑出していることが必要となる」
 このように「統一戦線戦術」は、それを目的意識的に推進する「主体」としての、共産党の一定の確立が、前提であると同時に、重要なことは、その推進をとおして、共産党が自らを鍛え上げることを強いられるという構造をもっていることである。
 「共産主義インターナショナルそのものの内部で、多かれ少なかれ右翼的ないしはさらに半中央派的と評価される部類のなかには、疑いもなく二種類の傾向が存在する。一方の要素は、第二インターナショナルのイデオロギーや方法と真に手をきってはおらず、第二インターナショナルの以前の組織的勢力にたいする畏敬の念から解放されておらず、半ばまたは全然自覚しないまま、第二インターナショナルとの――ひいてはブルジョア社会との――思想的協調の道を求めている。形式的ラディカリズムにたいして、いわゆる『左派』の誤りにたいしてとくに闘っている他の要素は、労働者大衆の深奥へのより急速な浸透の可能性を若い共産党に確保するため、この党により多くの柔軟性と機動性をあたえようとつとめている。
 各国共産党の急速な発展は往々、両者の傾向を同じ陣営に、またある程度まで同じ部類につきやってしまっている。上述の方法は、プロレタリアートの統一的大衆行動のなかで共産主義的煽動に足場をあたえることを任務としているが、この方法を適用することは、共産党内の現実に改良主義的な諸傾向をもっともよく浮き彫りにするものであり、また、この戦術が正しく適用されるならば、経験をつむなかでの性急な、またはセクト的な気分の分子の教育、ならびに改良主義の重荷からの党の解放によって、共産党の内的、革命的強化に非常に寄与するものである」
 以上が「統一戦線の指針」の概略である。さきにみた「革命的戦略の最高の学校」としてのコミンテルン第三回大会と、その一環としての「統一戦線戦術」の基本的意義を認めた上で、すぐ気がつく幾つかの問題点をまずあげてみよう。
 第一。これまでみて来たように戦後ドイツ革命運動における反カップ一揆闘争―独立社民左派との合同によるVKPD結成―「公開状」戦術の過程で課題となってきた、「レーテ」(運動・革命・権力)の実現のための「迂回路」ということ(「統一戦線」の「出発点」、起源)が、ここでは「共産主義者の多数者獲得」の問題へと転化されて来ていること。勿論、「レーテ」実現のための諸条件の形成ということは、党派次元では、共産党の強化拡大となるのは当然であり、そのこと自体問題はない。だが両者は全くの同義なのではない、いいかえれば、「共産主義者の多数者獲得」が即「レーテ」実現の諸条件の形成を意味するわけではなく、問題はあくまでその「共産主義者」が「レーテ」の本質的性格をいかに把握しており、かつ、それへの萌芽的諸要素といかなる関係をとり結んでいるかにかかるのである。
 「ソビエト」(運動)―「党」―「統一戦線」の立体的関係に関する不明確さ。
 第二。以上のことは勿論コミンテルンが、「ソビエト」(運動・革命・権力)を放棄したことを即意味せず、それは前提であり、それへ向けての「統一戦線」ということであっただろう。「いまおかれている全般的情勢のもとでは、どのような真剣な大衆行動も、たとえそれが部分的要求から発しているとしても、より全面的、より基本的な革命の諸問題を不可避的に日程に上らせるであろう。」ということにそれは示されており、第三回大会での「戦術に関するテーゼ」でも「部分的要求のために闘う労働者は全ブルジョアジーとその国家機関に対する闘争へと自動的に駆り立てられるだろう。共産党の任務は具体的な要求に対するこの闘争を拡大し、深め、統一することである。……
 もっとも広範な大衆の必要に密着したこれら諸要求を、大衆を闘争へ導くだけでなく、その要求の性質にもとづいて彼らを組織するような方法で、共産党は掲げなければならない。労働者階級の経済要求から引き出されるすべての実際的スローガンは生産管理への闘争へ導かれねばならない。それは資本主義体制のもとでの国民経済の官僚的組織への計画としてではなく、工場評議会および革命的労働組合を通じてのそれでなければならぬ。……」と述べられている。
 だがコミンテルン第二回大会での「労働者評議会建設の諸条件に関する指針」「労働組合運動、工場委員会に関する指針」の内容にも規定されて「部分的要求」―「過渡的要求」による大衆行動の発展=「共産主義者の多数者獲得」と「権力基礎」としての「ソビエト」(運動)との関係が不鮮明となって来ていること。
 第三。第一、第二の問題に関連して、「ソビエト」と、その「迂回路」が本来的にはらんでいく「矛盾」、緊張の問題が、共産党と改良主義的諸党、労働諸団体との関係という側面でのみ押えられていく傾向の結果として、「共産党の絶対的な自主性と完全な独立性」と「統一戦線」が文字通りの「ジレンマ」となってしまう危険性。
 勿論、党派次元のあらわれ方としては、とりわけロシア革命以後の党派間亀裂の深さのもとでは、多かれ少なかれそのことは不可避である。にもかかわらずハッキリさせておかなくてはならないのは、問題の根っこは「ソビエト」(運動)と、その実現のための「迂回路」との間に本来的に生み出される「矛盾」にあるのであって、党派関係は、その転化形態あるいはその党派次元のあらわれなのだということである。何故このことを問題にするかというと、前者を見失うとき、後者は突破の道のない「ジレンマ」に入りかねないからである。いいかえれば、前者を根本において押さえていることによってはじめて「矛盾」は、その解決へ向けての格闘が、前進のための、不可避な、新たな課題となるのであり、後者の問題もただ「ジレンマ」ではなくなるからである。
 二月から十月へ向けてのボリシェヴィキの戦術が依然として「統一戦線戦術」の一つの模範たりうるのは、以上のような「ソビエト」―「党」―「統一戦線」(党派間の共同と闘争)の立体的関係が典型的に現出したからである(「統一戦線の指針」では「共産主義インターナショナル執行委員会は、これまでのところブルジョアジーにたいする勝利をかちとり、権力を手中に収めた唯一の党であるロシアのボリシェヴィキの諸経験を、すべての兄弟党に想起させることが、有用であると考える」として、主にメンシェヴィキとの党派関係の経過を簡単にふれているが、「ソビエト」―「党」―「統一戦線」の立体的関係をめぐる自らの経験を提起しえてはいない。この作業は後にトロツキーによってなされることになる。――別提起「ソビエト論の深化のために」参照)。
 もっとも当該の時期は、すでに「二重権力」状況がブルジョア権力によって終熄させられ、かつ党派間亀裂の深さは、「自然発生的」な「超党派的ソビエト」の形成を不可能としており、ただ二月から十月へ向けてのボリシェヴィキの経験をモデル化することは、無力であるのだが。
 第四。以上のような傾向的問題点の結果として、「相手側が拒否した場合、受け入れた場合、のいずれの場合でも、運動の前進につながる」ということが、しかし現実的には、党派間亀裂の深さを打ち破る上での一定の無力さの露呈。さらに社民による「共産主義者のマヌーヴァー」というキャンペーンに口実を与え、社民系労働者大衆の不信をつき崩す上での一定の限界。
 初期コミンテルンの「統一戦線戦術」の構造をつかむ上で、以上の「統一戦線の指針」とともに不可欠なものとしてトロツキーの「統一戦線について」(二二年三月)がある。どちらかといえば、後者の方がより明確かつ掘りさげが深化されているといえるだろう。
 「共産党の任務は、プロレタリア革命を指導することだ。共産党は権力を直接獲得し、これを達成するためにプロレタリアートを動員する目的で、労働者階級の圧倒的多数をその基礎としなければならない」
 「共産党は完全に独立し、その党員がイデオロギーの上で完全に一致していることを確認したのち、労働者階級の大多数をその影響下におくために闘っている。……だがプロレタリアートの階級的生活が、こうした革命の準備期の間にも決して停止させられはしないということは全く自明のことだ。産業家との、ブルジョア階級との、そしてまた国家権力との闘争は、いずれの側かのイニシアティヴのもとに、それ自身のしかるべきコースをたどっていく。
 全労働者階級、その大多数ないし、あれこれの部分の死活の利益をふくむ限り、こうした大闘争のなかで、労働者大衆は、行動のなかでの、資本主義の猛攻にたいする抵抗のなかでの、ないしは資本主義にたいする攻勢のなかでの、統一の必要を感じている。労働者階級にとってのこうした行動の統一の必要に機械的に反対する党は、どんな党であろうとも、労働者によって非難されることは間違いないところだろう」
 「したがって、統一戦線の問題は、その起源についても本質についても、共産党と社会党の議会フラクションの間の相互関係や、この二つの党の中央委員会の相互関係……の問題では決してない。現在の時期においては、労働者階級に基礎をおく各種の政治組織の間では分裂は不可避的だという事実がみとめられるにもかかわらず、統一戦線の問題は、労働者階級のために資本主義との闘争のなかで統一戦線を結成することの可能性を確保する緊急の必要から生じるのだ。こうした任務を理解しない人々にとっては、党とは単に宣伝の組織にすぎず、決して大衆行動の組織ではないのだ」
 「共産党がまた少数派の組織にすぎない場合には、大衆行動の局面でいかに行動するかという問題は、決定的な実践的ないし組織的な意義をもってはいない。こうした条件のなかでは、大衆行動は、いまなお根強くのこっている伝統のために決定的な役割を演じつづけている古い組織の指導のもとにおかれる。これと同様に、たとえばブルガリアのように共産党が勤労大衆のただひとつの組織である国々では統一戦線の問題は決して生じない。だが、共産党がすでに大きな組織された政治力となってはいるが、まだ決定的に強大な力になっていないところ、党が、いうならば組織されたプロレタリアートの前衛の四分の一ないし三分の一しか組織していないところ、いやたとえ過半数まで組織しているところでも、こうした国々では、共産党は統一戦線の問題に鋭く対決させられるのだ」
 「統一戦線は労働者大衆の上だけにひろげられるのだろうか、それとも日和見主義的な指導者の上にまでひろげられるのだろうか? 問題をこのような形でだすこと自身が、問題を理解していない結果である。もし、われわれが労働者大衆を容易にわれわれ自身の旗、もしくはわれわれの実践的な直接のスローガンのまわりに統一し、党であると組合であるとを問わず、改良主義の組織をとびこえることができるならば、それはもちろん世界で一番いいことだろう。そんな場合には統一戦線の問題は、現在のような形ではそもそも存在しないだろう。問題は、労働者階級の若干の重要な部分が改良主義的な組織にぞくするか、あるいはこれを支持しているところから生ずるのだ
 彼らの現在までの経験では、彼らを改良主義的な組織から分離させてわれわれの組織に参加させるまでには至っていない。こうした関係のなかに重大な変化がおこるのは、まさしく彼らが現在日程に上っている大衆行動に参加したのちのことだろう。われわれが努力しつつあるのは、まさにこのことなのだ
 「さきにのべたように、共産主義者たちは、こうした統一行動に反対せず、逆にそのイニシアティヴをとらねばならない。何故なら、大衆がますます多く運動にひきいれられ、彼らの自信がたかまればたかまるほど、大衆運動はますます自信を強め、闘争の最初のスローガンがどんなに謙遜なものであろうと、ますます断乎として前進することができるようになるからだ。そしてこのことは、運動の大衆的側面の成長が、運動を急進化させ、そのスローガン・闘争方法ないし一般的には共産党の指導的な役割にとって、ますます有利な条件をつくることを意味するのだ。」
 「したがって、戦線統一の前提は、われわれが、一定の限界の内部で、さらに特殊な問題については、改良主義者たちが戦列についたプロレタリアートの重要な部分の意志を表明するかぎり、実践のなかでわれわれの行動を改良主義者の団体のそれと一致させるように準備することだ」
 「統一戦線の確保をめざす政策は、もちろん、行動の統一があらゆる場合に現実に達成されるだろうということを自動的に保証するものではない。反対に、多くの場合――そして、おそらくは大多数の場合に、組織と組織の間の意見の一致は、半ばしかえられないか、あるいはたぶん全然えられないだろう。だが、たえず、闘争する大衆にたいして、行動の統一が達成されないのは、われわれの公式的な非妥協性によるものではなくて、改良主義者の側に闘争しようとする真の意志が欠けているからだということを信ずる機会をあたえることが必要なのだ。他の組織との間に意見の一致を求める場合、われわれはもちろん、若干の行動上の規律にしたがわねばならない。だがこうした規律は決して絶対的な性質のものであることはできない。改良主義者たちが、あきらかに運動を妨害するために闘争にブレーキをかけはじめ、大衆の状況や気分に反して行動する場合、われわれは独立した組織として、たえず闘争を最後まで――しかもわれわれの一時的な準同盟者がなくても――やりぬく権利を保有するのだ。このことによって、あるいは、われわれと改良主義者との間の闘争は、新たに鋭さをくわえるかもしれない。だが、このことは、もはや閉鎖的なサークル内部の同じ一組の観念の単なるくりかえしをふくむものではなく、もしわれわれの戦術が正しいならば、プロレタリアートの新しいグループにたいしてわれわれの影響が拡大することを意味するのだ」「こうした政策を『和解』としておそれるのは一見、革命的とも思われるのだが、こうした心理の背後には、共産主義者と改良主義とがその内部でたがいにそれぞれ彼ら自身の厳格にしきられた勢力範囲――すなわち集会での彼ら自身の聴衆や、彼ら自身の新聞をまもっている秩序を永久的なものにしようとする政治的な受動性が頭をもたげているのだ」
 「われわれは、労働運動の内部の裏切りや不決断や中途半端な気分を批判する十分な自由を獲得するために、改良主義者や中央派と訣別したのだ。こうした理由で、われわれは、われわれの批判や煽動の自由を制限するような組織と組織の間の協定はどんな種類のものでも、これを承認することは絶対にできない。
 しかしわれわれは統一戦線に参加する。だが、いかなるときにも、その中に解消されることはない。われわれは統一戦線のなかで独立した部隊として働く。闘争がすすんでいくうちに、広範な大衆は経験を通じて、われわれが誰よりもよく闘い、誰よりもはっきりと事態を注視し、誰よりも勇敢で決断力があることを学ぶにちがいない。こうしてわれわれはまごうことなき共産主義者の指導のもとで、革命的統一戦線を結成するときに近づくだろう。」
 「統一戦線の指針」、さらにこのトロツキーの「統一戦線について」をみるとき初期コミンテルンの「統一戦線戦術」の輪郭がほぼ明らかになる。それは単に「共産主義者の多数者獲得」という平板なものではなく、次のような一定の立体的構造をもっていた。

(@)戦後の直接的革命情勢は終熄し、「革命の準備期」である。「レーテ」は、ブルジョア政権と社民的労働組合に制圧され、辛じて「レーテ」(運動・革命・権力)への萌芽的諸要素が苦闘している。共産党は少数派である。共産党は、労働者階級の圧倒的多数を獲得するために闘わなくてはならない。――「多数者獲得」
(A)一方、敵階級の体系的攻勢に対して、労働者大衆の「左傾化」がすすみ、党派的分断をこえて「抑えきれない統一への志向」が生み出されている。この「前代未聞の統一への衝動」は、いまだ種々の限界があるが、基本的には「進歩的」であり、さらに「労働運動がいまおかれている全般的情勢のもとでは、どのような真剣な大衆行動も、たとえそれが部分的要求から発しているとしてもより全面的、より基本的な革命の諸問題を不可避的に日程に上らせるであろう」――「多数者の結集」
(B)共産党は、この「統一への志向」、大衆行動を促進させなければならない。だがプロレタリア大衆は「真空」の中にではなく、直接、間接に根深い党派的分岐・分断の中にある。ここにおいて、目的意識的な「統一戦線戦術」の展開が不可欠となる。
(C)その成功的な実現による、共同行動・大衆行動の発展は、「運動を急進化させ、そのスローガン・闘争方法ないし一般的には共産党の指導的な役割にとって、ますます有利な条件」を生み出し、大衆行動・党派関係に「重大な変化」がおこるだろう。
(D)「まがうことなき共産主義者の指導のもとでの革命的統一戦線」の結成への接近。「ソビエト」(運動・革命・権力)の再興。――(@)(A)の統一
 ここには、すでにみたKAPDの「AAU」方針や、VKPD左派の「攻勢戦術」を遠くこえた政治的射程力が働いているといえよう。にもかかわらず、初期コミンテルンにおけるボリシェヴィズムの問題点も又露呈して来ている。
 問題を鮮明にするため、初期コミンテルンの「統一戦線戦術」と、二月から十月へのロシア革命の過程を対比してみよう。


 二月から十月へ  「統一戦線戦術」の構造
(@)二月革命。二重権力状況。改良主義ソビエトの存在。革命的ソビエトは萌芽。ボリシェヴィキは少数派。
 「革命の準備期」
(A)党派的分断をこえて「ソビエト」大衆の臨時政府との対立性格の「進歩的」要素。巨大な可能性。
(B)「四月テーゼ」。ソビエト内諸党派への「統一戦線戦術」
 「全権力をソビエトへ!」「平和・パン・土地」。
(C)工場委員会への依拠。幾つかの拠点ソビエトの確保。反政府デモ。
 七月事件。反コルニーロフ闘争
(D)ソビエトの革命的再編。ボリシェヴィキ多数派
(@)戦後革命の半敗北。二重権力状況の喪失ないし微弱化。「レーテ」の解体。革命的「レーテ」は萌芽。共産党は少数派。
 「革命の準備期」
(A)党派的分断をこえて、労働者大衆の「統一への志向」。その「進歩的」性格と可能性
(B)「統一戦線を!」。
 「部分的要求、過渡的要求の全系列」。
(C)「レーテ共産主義者」のきりすて。コミンテルン第二回大会の「ソビエト」「工場委」に関する「指針」の内容性格。
 プロフィンテルン結成。
(D)「革命統一戦線」=「レーテ」の再興。共産党の多数派。

 勿論双方ともこのように単純化することはできないのであるが、あくまで問題を鮮明にするための対比である。
 第一。まず押えておくべきことは、初期コミンテルンの「統一戦線戦術」も又、単に平板的な「共産主義者の多数者獲得」路線ということではなく、一定の立体的構造(「ソビエト」―「党」―「統一戦線」をもっているということである。「共産党の多数者獲得」と「多数者結集」の間の「矛盾」「ジレンマ」ということも「レーテ」と、その「迂回路」と間に本来的に生み出される矛盾の転化形態あるいは党派次元でのあらわれであり、その解決は現在にはなく将来実現すべき課題としてあらわれるのであり、だからこそ「統一戦線戦術」が不可欠となるのである。
 第二。にもかかわらず、さきの対比で言えば、(C)の個所に問題点が凝縮しであらわれる。
 ロシア革命の現実過程では、(@)(A)の(B)を通じての(D)への発展過程は、くりかえし、(C)をテコとしてなされていった。あるいは(A)の(B)を通じての前進は、(C)を強化することになった。だが、初期コミンテルンの「統一戦線戦術」は、その回路を理論的にも閉ざしてしまっていたのである。その結果「共産主義者の多数者獲得」「多数者結集」の間の「矛盾」「ジレンマ」は、将来における根本的な解決への道を見失うこととなり(「革命的統一戦線」が不可能あるいは無力化する)、非生産的な「左右へのジグザグ」をくりかえすことになる(「統一への志向」の無意識的な「手段化」の傾向)。本来的な矛盾の変質・疎外形態。
 だが、注意すべきことは、すでに二月革命があり、二重権力状況にあったロシアの場合と異なり、(C)の問題がきわめて困難であったことであろう。にもかかわらず、現実にはきわめて困難だが、くりかえし、それを追求していくことと、理論的にもそれを閉ざしてしまうことの間には千里のへだたりがあるのである。
 第三。「統一戦線戦術」の問題点は、以上のことの他に、次のようなことに関連していた。
 それはロシア革命との対比でいえば、さきにみた「二重権力」状況下ではないということの他に、党派的分岐の深さ、さらに、ブルジョアジーの力、その問題解決能力(国際的協力を含めて)の問題である。
 たとえば、ロシア革命の場合、少なくとも十月以前においては、諸党派総体の敵階級との対立度をこえて、党派間対立が深化することはなかったのであるが、ロシア革命以降、社民党は、共産党と対決するためには敵階級とも連合するというような党派間対立の根深さがある。このこととの関連での「労働組合」の位置。
 又、労働者大衆の「統一への志向」「部分的要求による大衆行動」も、その限りでは、無限の可能性をもつわけではなく、ブルジョアジーによって包摂されてしまう危険性。このこととの関連での「労働組合」の役割(この点については、別提起「行動委の再点検のために」での、戦後ドイツ革命におけるレーテの解体過程を参照)。
 これに関連してたとえばボルケナウは次のように言っている。「真のジレンマは、革命家でありつづけるか、大衆を獲得するかの二者択一にあった。左派は前者をとり、条件が耐えがたいものとなれば、労働者は共産主義者の考えが正しかったことを悟り、自分の考えを変えるだろうと主張した。これに対して右派は大衆を獲得するほうを選び、いったん大衆を獲得してしまえば、かれらを革命に導くことは容易であろう、とまったく気やすく断言した。」だが現実には「共産主義者は、純粋な革命家でありつづけて大衆を獲得しないか、あるいは、革命のためにではなく、民主主義のなかで大衆の直接的利益をまもるために大衆を獲得するか、そのいずれかを選ばねばならなかった。」いずれにしろ無力なものにとどまったというのである。「その主たる理由は、欧米における民主主義の存在であった。一九一八年以降の欧米のすべての国には立憲的機構が存在したし、労働者はこれを通じて不満をあらわすことができた。そのような機構はロシアにはかつて存在したことがなく、ロシアではもっとも穏健な問題の闘争にも労働者が国家権力と直接対決したのである。欧米では、社会主義者は、大衆から共産主義者との協力を迫られると、ただちにこう答えた――『もし共産主義者が、利用できるあらゆる民主主義的手段を約束どおり利用する用意さえあるならば』と。だが民主主義の基本的手段は選挙による政権の獲得である。共産主義者は立法的諸問題に関して社会主義者に統一戦線を申しいれる際、つぎの質問に答えねばならなかった――「もしわれわれの共通の努力によって多数派になれば、諸君はわれわれと民主主義政府を樹立する用意があるか」と。ここで、問題はその根底にじかに触れるのである。」(『世界共産党史』)。ボルケナウの以上の指摘は「欧米民主主義」が、政治的・経済的に順調であることを前提にしたものでしかないが、一面では「統一戦線戦術」の問題点(第二、でみた)を衝きえているといえるだろう。
 さらに次のような証言もある。「モスクワの新戦術は間もなくドイツ共産党の衝撃力と独自の政治生活を破壊してしまった。ロシアの影響を受けて献身的な官僚主義者が党の指導権を掌握した。……ほぼ一九二一年夏以来、ドイツ共産党は社会民主党と全く同じように行動力を失っていた」(ローゼンベルク『ワイマール共和国史』)。

A 一九二三年十月
 コミンテルン第三回大会を受けて、二一年八月にVKPDは第七回大会を開き、「大衆の中へ!」の実践に向うことになる。(尚、この大会で「合同」の時期は終ったとして、再びKPDを名のることになる)。
 同年十月、他の労働者諸党、労働組合中央に対して次の項目による共同闘争のよびかけ。
 「第一、インフレーションによって資本家が莫大な利益を得ていることにたいし、国家が資本家の財産の一部を差押えること。第二、八時間労働制、ストライキ権、団結権を無条件に守ること。第三オルゲシュなどの反革命部隊をすべて武装解除し、解散すること。勤労者自衛隊の結成。第四、行政機関、裁判所、軍隊および保安警察からいっさいの帝制主義者をパージし、これらの機関を労働者の統制下におくこと。」
 すなわち、パウル・レーヴィ(ラデック)の「公開状」戦術の復活である。
 さらに、同年十一月の中央委員会で、「労働者政府」(SPD、USPDおよび労働組合中央からなる政府)を、支持する確認がなされ、二二年一月の中央委では、その「労働者政府」が「合法的、非合法的反革命団体を解散させ、警察と裁判所とをプロレタリアートの階級機関に変じ、また経営協議会の権利を拡大するなどの措置をとって、シュティンネスが事実上支配している独占の政府にたいして、この統一戦線政府の成立が、プロレタリアートの権力拡張を意味する、と考えられるときには、KPDは、中央政府であれ、州政府であれ、入閣の用意がある」ことが確認される。
 この「労働者政府」問題の背景には、「テューリンゲンにおいては、二一年の州議会議員選挙の結果、ブルジョア諸政党が三六議席を得たのに対し、SPD、USPDおよびKPDの議員数は、これをこえて、三七となった。すでに一年まえにはザクセン州においても同様の事態が現われていた」(上杉重二郎『ドイツ革命運動史』)ということがあった。
 以上のようなKPD中央による「統一戦線戦術」の展開は、後にみるように、強力な「左翼反対派」を生み出すのだが、しかし当面KPDの党勢はのぼり坂に向うこととなる。
 「新政策がその矛盾と弱点にもかかわらず、まったくの失敗ではなかったことは、党の組織的強化がこれを証明している。党は、三六万の党員と三三の新聞(三九万五千の定期講読者)、二〇の自らの印刷所、一三人の国会議員、五七名の州議会議員、七六七人の市会議員、一三六二人の市町村参事会員等々、全体で二九六一人の議会代表を擁していた」
 「とくに二二年における活動は、SPD系の労働者の陣営内においてさえも、KPDの影響を著しく高めた。KPDは再び広汎な階級闘争(賃金闘争、税金闘争、八時間労働日とストライキ権の防衛等々)に加わった。労働組合と経営評議会において党はその組織の範囲を増大した。労働者階級の多数者の獲得という目標は、なるほど達成されてはいないが、しかしきわめて強く促進された」
 「共産党は、その労働組合への影響力を強め、経営評議会運動、プロレタリア的管理委員会および百人組の運動を発展させようとした。二二年六月のドイツ労働組合総同盟の第十一回ライプツィヒ大会において、党は全代議員の八分の一強を占めていた。すなわち六九一名の代議員のうち九〇名がKPD党員であった(USPD一三八、SPD四六三)――ワイマール時代のすべてにわたってKPDが、後にも先にも労働組合大会においてこれ以上の人員を支配できたことはなかった! 二二年十一月ベルリンで全国経営評議会大会が開催され、これには六五七名のKPD党員、三八名のSPD党員、二二名のUSPD党員、五二名の無党派等々、総計八〇二名の代議員が参加し、大会で全国常任委員会が選出された。二二年六月に起ったラーテナウの暗殺後、反動的再軍備の監視とプロレタリアートの食料の確保を任務とするプロレタリア的管理委員会が生まれた。二三年七月末に八〇○のそのような委員会があった。それは無論しだいに禁止され、ザクセンにおいてのみ法的に承認されていた。はじまりつつあるファシズムに反対するプロレタリア百人組もまた、ラーテナウ暗殺後の大衆運動の結果として、統一戦線の手段および成果として生まれた。」(フレヒトハイム『ヴァイマール共和国時代のドイツ共産党』)。
 以上のようなブランドラー(ラデック)指導部の「統一戦線戦術」の一定の成功は、しかし同時にその内部に、後に「統一戦線の右翼的理解」といわれる傾向を生み出して来ていた。
 たとえば次のような問題である。「二一年八月には蔵相エルツベルガー、二二年六月には外相ラーテナウが殺害された。エルツベルガーの殺害にもましてラーテナウの暗殺が、反動に反対し、共和国のためにする強力な大衆デモの契機になった。KPDは統一戦線戦術をもって、この運動への影響力を獲得しようとした。左派の反対にもかかわらず、共和国の民主化(共和国保護法、軍事的秘密組織の解体、行政、司法および軍隊からの反動の追放、政治的恩赦等)を目指す、労働組合および社会主義政党との協定に署名した(「ベルリン協定」)。共産党中央機関紙は、さらに進んで、『労働者階級は、共和国を反動から保護する権利と義務を有し……その生命をプロレタリアートの挙によって保護されているヴィルト内閣は、労働者とともに統治するのか、労働者に反対する政治をおこなうのか、その色彩をはっきりさせなければならない』と声明した。……こうしてこの数ヵ月の唯一の収獲は二二年七月の共和国保護法であったが、ほかならぬこの法律が、間もなく反動的警察と司法の手中にあって、王党派ではなくてKPDに対して向けられる武器となった」(フレヒトハイム)。つまり「反ファッショ民主主義」のような傾向である。
 これに対してベルリン、ハンブルク等を拠点に左翼反対派が生み出された。マスロフ、ルート・フィッシャー、テールマン等である。
 この両者の対立性格は、かつてのKAPDとVKPD、さらにVKPD内部のパウル・レーヴィ派と「攻勢的戦術」派のそれとは異なり、基本的にはコミンテルン第三回大会と「統一戦線戦術」を承認した部分における分岐であった。
 すでにみたように、「統一戦線戦術」の「出発点」である「レーテ」(運動・革命・権力)と、その「迂回路」という問題自体が、すでにその関係の中に、矛盾、緊張を解決すべき課題として、本来的に生み出すのだが、それは、具体的な要求にもとづく大衆的共同行動という次元では、いまだ顕在化しない。だが、それは不可避的に、協定を含む党派間関係、さらには、その「帰結」としての「労働者政府」問題に直面する中で、きわめて微妙かつ困難な課題として顕在化する。
 KPD内部における新たな左右対立は、まさにこの段階で生み出されたのである。
 二二年十一月のコミンテルン第四回大会は、第三回大会以降の、とりわけ「統一戦線戦術」をめぐる諸経験の総括、生みだされた左右対立の調整、そして新たに「労働者政府」問題の方針の確定が課題であった(尚、大会直前に、執行委員会のアンケートに対して「統一戦線戦術に反対を表明した回答は、フランスが総数の六五パーセント、ドイツが四〇パーセント、イタリアが二六パーセント、イギリスが二四パーセント」(デグラス『コンミテルン・ドキュメント』であった)。採択された「戦術テーゼ」(ジュノヴィエフ起草)は、KPD右派(とラデック)とKPD左派(とジュノヴィエフ)の対立の妥協の産物と言われているが、そこでは対立点はどのように調整されているか。
 「『大衆のなかへ』という第三回大会のスローガンは現在かつてないほど妥当する。いまようやく、大多数の国ではプロレタリア統一戦線形成のための闘争がはじまっている。……共産主義インターナショナルは、すべての共産党および共産主義グループが、統一戦線戦術をもっとも厳格に追求することを要求する。というのは、現下の時期では、この戦術だけが、勤労者の多数を獲得する確実な道を共産主義にさししめすものだからである」ということがあらためて強調される。
 だが「統一戦線戦術とは、あれこれの議会主義的目的を追求する首脳部間のいわゆる『選挙連合』を意味するものでもなく、又、第二インターナショナルが言うような、すべての『労働者党』の融合」なのでもない。「統一戦線戦術においてもっとも重要なものは、労働者大衆を煽動面でも組織面でも団結させることであり、今後もそうである。統一戦線戦術の現実の成果は、『下』から、労働者大衆の深部からうまれる。だがその際、共産主義者は、一定の状況のもとでは、敵対的な労働者諸党の首脳部とも交渉することを断念するわけにはいかない。その場合でも、この交渉の経過については、大衆にたいし、つねに、完全に報告しなくてはならない。共産党の煽動の独自性は首脳部との交渉の間でも、決して制限されてはならない」
 「統一戦線を実現する場合、とくに重要な任務は、煽動上の成果をあげるにとどまらず、組織上の成果をもあげることである。労働者大衆自身のなかに組織的拠点(経営評議会、各党および無党派の労働者からなる管理委員会、行動委員会など)をつくりだすための機会でさえあれば、ただのひとつもみのがすことは許されない」
 この「戦術テーゼ」における「統一戦線戦術」の構造は、第三回大会と「統一戦線の指針」(さらにトロツキー「統一戦線について」)でのそれがさきにみたような問題点をはらみながら持ち得ていた一定の立体的関係を、基本的には尚保持しているといえるだろう。
 にもかかわらず、すでに微妙な変化もあらわれている。すなわち「下から」という、その限りでは間違いではないことと、「敵対的な労働者諸党の首脳部との交渉」(「上から」)ということとの関係についての把握の仕方が非有機的なものとなっている。ここでは「敵対的な労働者諸党の首脳部」は、共産党に完全に屈服するか、あるいは暴露・弾劾されるか、いずれにせよ、彼らとの「交渉」は「下から」への手段でしかなく、真剣な共同行動の中でプロレタリア大衆が、変化し成長するための条件の一つということではなくなっている。そしてこの時期ブハーリンはすでに「統一戦線は共産党の戦略的マヌーヴァーである」と言い出していた。
 「経営評議会、各党および無党派の労働者からなる管理委員会、行動委員会など」の強調は、さきにふれたコミンテルン「統一戦線戦術」の問題点ということが反駁されることを意味するか。
 「どのような共産党も、それが経営、工場、鉱山、鉄道などに強固な共産主義的細胞をもたない場合には、真剣かつ現実的に組織された共産主義的大衆党とみなすことはできない。また現情勢のもとでは、どのような運動も、それが自己の脊柱として経営内諸委員会を創出していない場合には、計画的に組織されたプロレタリア大衆運動とみなすことはできない。とくに資本攻勢に反撃し、生産統制をめざす闘争は、共産主義者があらゆる経営に自己のプロレタリア的闘争機関(経営レーテ委員会、労働者レーテ)を創出していない場合には見込みはない。したがって、本大会は、すべての共産党が従来以上に経営内に定着して、経営レーテ運動を支持するか、またはこの運動のイニシアティヴをとるかすることを、共産党たるものの主要任務のひとつとみなすのである。」
 ここには、労働組合中央の抑圧に抗して、二二年八月にベルリン経営評議会の集会、十二月には全国大会がもたれるなど昂揚に向いつつあったドイツの階級闘争と、KPD左派の主張が反映しているといえよう。
 さきにみたようにロシアでの二月から十月への過程でも、後にそれを抑圧することになるボリシェヴィキの工場委員会への依拠と「労働者統制」論は、現実の工場委員会―「労働者管理」論と「蜜月」の時期を過したのである。
 だがすでに触れたような「ソビエト」(運動・革命・権力)へ向けての「迂回路」の問題を「共産主義者の多数者獲得」にきりつめるか同義とする傾向、第二回大会での「ソビエト」と「工場委員会」についてのテーゼの問題点、経営レーテ等を「多数者獲得」の手段とするような転倒した傾向等が併在していたのである。
 さて、第四回大会の焦点である「労働者政府」問題について「戦術テーゼ」は、いかなる態度をとっているか。(未完)
                

〔二〕「プロレタリア統一戦線論」の検討

(1)「プロ統論」のきり拓いた地平
 冒頭にふれたように日韓闘争の総括作業の過程で提起された「プロレタリア統一戦線論」は、われわれの路線においてきわめて重要な位置を占めている。
 日本階級闘争の革命的発展を封じ込め、窒息させるべく作用している「民族民主統一戦線」と「反独占国民戦線」なるものを打ち破り、六九―七〇へ押し上げていく中で、この「プロ統論」は、現実をきり妬いていく路線的生命力を確実に発揮した。
 さらに六九―七〇以降の沖縄、三里塚、狭山等々の日本プロレタリア革命にとって、戦略的な意義をもつ諸戦線、諸課題のプロレタリア的関わりと推進に不可欠な指針たりえている。
 その理論的根拠は、この「プロ統論」が、「民族民主統一戦線」や「反独占国民戦線」の反プロレタリア革命的性格の暴き出しに止まらず、初期コミンテルンの「統一戦線戦術」そのもののもつ問題点への根本的な解明に成功しえているからである(このことに無自覚なまま、その最も忠実な継承のつもりで日本の現在に適用した場合どうなるかの一例が、第四インターの「社共政府」論である。あるいは、中核による「……実際上は、解放派の影響下にある労働者、あるいはわれわれの影響下にある労働者、あるいはいろんな党派の影響下にある労働者が、今日的な形態でどういう統一行動、統一戦線を形成するのか、ということが具体的に論じられなければいけない時に、『プロレタリア統一戦線』という極めて思弁的な形態を、しかも自分たちだけの小さな勢力で、自己満足的に提起しているのは、実に漫画的、無意味、無内容」であり「階級闘争の激発の中ではそれぞれの党派の運動というのが、党派闘争を含んで激烈に進行していて、それが自分自身を殲滅させかねないような敵の攻撃に対抗していくということと、その中で生れて来る連合戦線を通して、攻撃的に新しい政治局面を創り出していくという状況の中で、統一戦線あるいは統一行動として事態は進行する」というような主張)。
 この「プロ統論」のきり拓いた地平は、断乎として擁護され、継承・深化されなければならない。そのことの一環として、同時にわれわれは、冒頭でふれたような、われわれの運動が傾向的にはらんで来ている問題に目をつむることはできず、その根拠が反省されなければならたい。
 その場合、幾つかの視点がありうるだろう。@ 「プロ統」の初期、あるいは反動期での不可避的な傾向
A われわれの「プロ統」のための闘いの不充分さ
B 「プロ統」の適用対象の選択における誤まり
C 「プロ統論」それ自体の問題点
 この作業の視点は、Cにある。それは勿論、@Aを否定せず、さらにBについての論議の必要性を認める。以下Cについて簡単にみていこう。
 尚「プロ統論」は、種々の意味できわめて「難解」であり、以下の指摘についても、誤解にもとづくことがありえるものとして検討を要請する。

(2)「プロ統論」の問題点(骨子のみ)

@「出発点」の押え方
 初期コミンテルンの「統一戦線戦術」の「出発点」をどこで押えるかは、その評価の仕方にとってきわめて重要である。「統一戦線戦術の出発点は、少数の共産主義者が労働者大衆の多数を獲得しなければならないということである。統一は労働者大衆の底からの要求となりつつあるという。そこで社会民主主義政党との統一戦線を呼びかける。……いずれにしても多数者獲得にとって損にはならぬ。こういうふうに問題を立てている。……その限りで言えば、共産主義者がふくれていくための戦術である。労働者の結集、統一が、労働者の大衆の奥底から発する素朴な要求だといいながら、それを直接に共産主義者の多数者獲得のための手段としていることになる」(『プロレタリア解放のために』一七七頁)
 この把握は正しいか。間違いではない。だがこれまでみたように「共産主義者の多数者獲得」ということは、「ソビエト」(運動・革命・権力)の実現のための「迂回路」ということの党派次元でのあらわれ、あるいは転化形態として押えるべきではないのか(その限りでは、「共産主義者の多数者獲得」という立て方は、当然の表現であり、即「統一への志向を手段として利用する」ことを意味しない)。問題は、それが単に党派次元での表現、転化形態ということに止まらず、ボリシェヴィズムの問題点によって、そもそもの「出発点」の変質ないし疎外形態となったということにあり、その限りでは、「プロ統論」の把握は誤まりではない。
 にもかかわらず、そもそもの「出発点」を「ソビエト」の実現のための「迂回路」(この表現は必ずしも適切ではないのだが)というところで押え、「共産主義者の多数者獲得」は、その転化ないし疎外形態としてみるべきであるのは、次の「二律背反」「ジグザグ」の根拠をいかに押えるかに関係していくからである。

A「二律背反」「ジグザグ」の根拠は何か
 「……この問題を初期のコミンテルンについてみると、統一戦線戦術を右翼的に理解されたり、左翼的に理解されたりした、という批判の繰りかえしではあるが、この繰りかえしそのものの中に、何故こういう繰りかえしをしなければならなかったのかという問を立て、かつ『統一戦線』の基本構造そのものの反省の中から、答えを引き出さなくてはならない」「……コミンテルンの統一戦線が多数者の獲得と、多数者の結集との二律背反に陥っていること」(一七三頁)。「コミンテルンの統一戦線戦術の展開は、共産主義者という少数者がいかに多数者を獲得するかということと、共同の敵に対していかに多数者を結集するかということとの間をジグザグに渡り歩いている事態になっている」
 重要なことはこの「多数者の獲得」と「多数者の結集」との「二律背反」ということは、「ソビエト」と、その実現のための「迂回路」との間に、本来的に生み出される「矛盾」、緊張の、転化形態ないし疎外形態だということである。
 すなわち、この「二律背反」ということは、単に何らかの誤まりの結果ということではなく、革命的少数(「ソビエト」への萌芽的諸要素)の運動と、「共同の敵」「部分的・過渡的要求」にもとづく多数者の運動との関係の中に本来的にはらまれる「矛盾」、緊張なのであり、その根本的な解決は将来の課題(「ソビエト」の勝利的実現)となるのであって、現在的には、「ソビエト」の萌芽と、党の「正しい政治的戦略と戦術」の展開としてあるのであり、そういう意味では、「解決不可能」なものとして、課題となるのだ。問題は、それがボリシェヴィズムの問題点によって、将来における解決への道を見失ない、文字通りの「二律背反」「ジグザグ」となりかねないものとして、初期コミンテルンの「統一戦線戦術」はあったという限りでは「プロ統論」の指摘は誤まりではない。
 にもかかわらず、この「多数者の獲得」と「多数者の結果」の「二律背反」「ジグザグ」は、「ソビエト」と、その実現のための「迂回路」との間に本来的に生み出され、その解決・止揚・統一は根本的に実現されたものとしては将来にしかなく、現在的には課題(萌芽的「ソビエト」運動と党の「正しい政治的戦略と戦術」の展開)となる「矛盾」、緊張の、転化形態ないし疎外形態であると押えるべきなのは、初期コミンテルンの「統一戦線の構造」(一七七頁)の把握の仕方、従ってわれわれの統一戦線論を「そこから批判的に再構築」(一七三頁)してゆく、その仕方に関していくからである。

B「再構築」の方向
 「……一方では、プロレタリア統一戦線は、単に種々の政治的潮流の労働者の間の、あるいは異なった諸階級とその党の間の共同闘争と区別され、他方ではプロレタリア統一戦線は、プロレタリア革命のための現在的準備をすすめていく政治的社会的統一戦線でなければならない」「異なった諸階級の階級的利害のもとに包摂されている大衆の、共同の敵に向っての統一戦線はありえない。あるのは共同闘争だけである。戦術的であるばかりか、戦略的でもある統一戦線だけが統一戦線であり、それは、ただ一つの階級の利害が一般的制約者、秩序づけるものとなって、他の諸潮流の構成員の要求を部分的制約者、秩序づけられるものとされている統一体としてのみありうる」(一八二頁)
 「この統一戦線の展開こそ、プロレタリア革命を現在的に準備してゆくところの現在の直下に擡頭せんとする『人間的社会』である」(一八六頁)「社会革命の現実的な力を現在的に育てて」(一八四頁)ゆくこと。
 ところでこの「現在の直下に擡頭せんとする『人間的社会』」とは何か。六九―七〇を闘いぬく中でそれは「……広大な大衆を敵に対抗して相互に結びつけるものは、実にこの〈大衆の共通利益〉なのであって、われわれは、それによって生き、そのために(その貫徹のために)闘い、またそういうものとして死すべきものである。そしてこの利害を、階級の共通利害を、権力に向って貫き通して行くことこそプロレタリア・ソビエト運動にほかならない」(「沖縄返還粉砕と労働者ソビエト」)というふうに深化されていく。
 すなわち「プロレタリア統一戦線」=「プロレタリア・ソビエト運動」ということになる(コジツケではなく内容上の関係から言って)。
 だが、すでにみたように、初期コミンテルンの「統一戦線戦術」のそもそもの「出発点」は、「ソビエト」(運動・革命・権力)の勝利的実現が、一しゃ千里には不可能となった状況(「二重権力」状況の喪失、ソビエトの解体、ブルジョアジーの支配の回復と、社民勢力の「再生」、革命的「ソビエト」(運動)は萌芽となり、その党派的表現として共産党は少数派)のもとで、「ソビエト」の再興のための「迂回路」の問題をめぐっていた。そして、それは、「ソビエト」と、その実現のための「迂回路」との間に本来的に生み出される「矛盾」の転化形態・疎外形態として「多数者の獲得」と「「多数者の結集」との「二律背反」「ジグザグ」をくりかえした。それに対して「プロレタリア統一戦線」は、「社会的・政治的」「戦略的」「現在直下に擡頭せんとする『人間的社会』」、すなわち「ソビエト運動」でなければならないということは、根本的批判がつ「再構築」の方向たりうるのか。
 たしかに、実現されたものとしての「統一戦線」の勝利は、「ソビエト」の再興を意味するものとして、現在的にも「ソビエト運動」とかさなり合い、同義たりうる。だが問題は、その「ソビエト運動」が萌芽としてしか存在しえない中で、それをいかに発展させ、実現していくかということをめぐって、固有の意味での、あるいは党派の目的意識的な「戦術」としての「統一戦線」の問題が課題となるのだ。
 「そしてコミンテルンは、この統一戦線と共同闘争とを完全に混同しているのであり、……この区別は……『労働者の統一戦線』ということのなかで隠されている」(一七九頁)
 たしかに「社会革命の現実的な力を現在的に育てて」いくことにおけるボリシェヴィズムの問題点という意味ではこう言うことは間違いではない。同時にコミンテルンが、単純に「共同闘争と統一戦線」を区別できず、混同していたなどということはないのであって、すでに初期コミンテルンの「統一戦線戦術」の構造をみたときにふれたように、革命的「ソビエト」は萌芽=共産党は少数派ということと、党派的分岐をこえた「統一への志向」という「矛盾」をいかに止揚していくかということにそもそもの「起源」はあったのである。表現としても「労働者の統一戦線」と「革命的統一戦線」=「ソビエト」の区別がなされている。そしてわれわれがボリシェヴィズムの問題点をこえて「社会革命の現実的な力を現在的に育てて」いくことに路線的基礎をすえた場合にも、同じ「矛盾」に遭遇するのであり、それはたとえば「当面の共同の敵に対するあらゆる共同闘争においてプロレタリア統一戦線の実現を推進していくこと、プロレタリア統一戦線へ向ってすべての共同闘争を現在的に変革していくことである」(一八二頁)ということにおいてただちに直面するのである。両者の「区別」は、このことを「免がれさせて」くれるわけではないのである。
 「プロレタリア革命への移行、あるいは接近の形態をさがしだすという任務」に、全力で取り組まなければならない。
 尚、「ところがここで大切な点は、労働者の統一戦線として擡頭してくるものは、実は生れ出んとする労働者党そのものなのです」(一七九頁)さらに「前衛党」は「前衛党ないし前衛組織と労働者とのジレンマに陥っている」(一七八頁)等については、別提起でみていくことにする。

〔三〕若干の確認点(整理点)と、今後深めるべき課題

(1) 整理点

@「統一戦線」論の大前提としての「政治」の領域の対象化
 『共産主義における「左翼」小児病』の意義と問題点の個所でみた問題である。ボリシェヴィズムと「評議会共産主義者」の対立性格の評価の仕方。「迂回路」=「諸条件」「過渡的課題」の問題は、単に革命の退潮期、準備期での戦術ということではなく、資本主義社会、「過渡期社会」を通じて、「党」とその「政治的戦略と戦術の正しさ」にとって本質的な課題なのである。KAPDの「自滅」の問題、プロレタリア革命運動におけるサンジカリズム、アナルコ・サンジカリズムの運動の問題、他方ではボリシェヴィズムのその「克服」の仕方における問題点。

A「統一戦線」の基本構造につて
 これまでみた初期コミンテルンの「統一戦線戦術」がもちえていた一定のダイナミズム、立体的構造を押えた上で、その問題点をいかに突破するかということである。
 いいかえれば、「統一戦線戦術」の展開が、不断に「ソビエト」(運動・革命・権力)の強化、再生へとつながり、かつ、それが「統一戦線」の革命的再編(「プロ統」「革命的統一戦線」としてのソビエトの実現)へと反作用していくような構造。このことが単なる「理想型」として不可能ということではないのは、すでにみたロシア革命での二月から十月の過程、ドイツにおける二三年十月への過程が示している。さらに中国、ベトナム、キューバ等の勝利した革命の経験は、何らかのかたちでこのことを実現している。
 しかし重要なことは、ロシアの場合には、すでに二月革命と、その結果としての「二重権力」状況があったこと、中国、ベトナム、キューバ等の場合には「民族独立」という「全人民的」課題の現実性との関連で、一定の空間的「解放区」(単に「地理的・空間的」ということではないのだが)が可能であったこと、という条件のもとで、「ソビエト」的諸要素の発展が比較的容易であったということである。それに対して、すでにドイツ革命の過程で簡単にみたように、直接的「二重権力」状況ではなく、かつ「発達した資本主義国」の場合は、このことがきわめて困難な課題となる。従って、初期コミンテルンの「統一戦線戦術」の問題点は、すでにふれたボリシェヴィズムそのものの問題点と、しかしそのことのみに還元されない、客観的な困難さがダブったものとして押える必要がある。すなわち、〈a〉直接的「二重権力」状況の喪失、〈b〉ロシア革命以降の社民の「反革命的」純化、党派的分岐の深さ、〈c〉国際協力を含むブルジョアジーの「部分的要求・過渡的要求」の包摂力、〈d〉以上に関連して、労働組合の位置・機能の変化、〈e〉プロレタリアートの分業への包摂の深さ、等々の問題である――現在的「ソビエト」運動の持続的推進の困難さそれを推進する党派が「少数派」となることの根拠。以上のことは、初期コミンテルンとボリシェヴィズムの問題点を指摘しえることによって、自動的に解決できることではなく、全力で格闘すべき課題となる。――「要求」の鍛え上げ、「地区的結合」、政治闘争

B 「ソビエト」(運動)と「統一戦線」の関係
 冒頭にふれた概念上の混乱の整理としていえば、明らかに、「プロ統」>ソビエト運動であろう。何故なら、これまでみたように、「統一戦線戦術」とは、「ソビエト」(運動・革命・権力)実現のための「迂回路」をめぐって、党派が目的意識的に推進する「戦術」だからである。勿論、実現されたものとしての「プロ統」は、ソビエトと同義たりうる。まして、われわれの場合、「プロ統」とは「社会的・政治的」「戦略的」「現在直下に擡頭せんとする『人間的社会』=「戦略的な権力基礎」とする以上、それは、ほとんどソビエト運動そのものを意味している。だがくりかえせば、その「ソビエト運動」が、現在的には、萌芽としてしか存在しえない中で、それをいかに鍛えあげ、実現していくかということをめぐって、固有の意味での「プロ統」という任務領域が成立するのであり、そうでない限り、あえて「ソビエト運動」と区別して「プロ統」という概念を使用する意味はなくなるのである。形容詞的、意味附与的、心情的に概念を使用することは、現実の運動を混乱させるだけであろう。
 以上のことに関連して、別提起「ソビエト論の深化のために」でふれられている、トロツキーの「統一戦線の最高形態としてのソビエト」という把握についてみておこう。
 結論的に言って、この規定は正しいだろう。それは次のような意味においてである。初期コミンテルンないしトロツキーの場合、「統一戦線」という概念は、二重の意味で使われている。すなわち、「共同行動としての労働者統一戦線」と「革命的統一戦線」というふうに。そして前者と後者が「混同」されていたなどということではなく、前者の推進により、プロレタリア大衆が成長し、変化し、党派の規定力に「重大な変化が起る」(トロツキー)ことを通して後者が実現されるという把握になっている。「統一戦線の最高形態としてのソビエト」ということは、この再編され、実現された「革命的統一戦線」のことであり、だからトロツキーも「ソビエトそのものは、革命的時期における統一戦線の最高形態であるが故に、それが生れるに先立って、まず予備期間において、統一戦線の政策がなくてはならない」と言っているのである。「共同行動としての労働者統一戦線」=ソビエトということではないのである。従って「統一戦線の最高形態としてのソビエト」ということは、たとえば岩井章が言うような、単なる「超党派機関」などというものではないのであり、結果において複数党、単一=合同党、単独党の規定力となるかどうかはともあれ、いずれにせよ、党派関係(協同と闘争、相互変革)における「重大な変化」は、前提なのである。
 しかも重要なことば、ロシア革命の場合においては、少なくとも十月以前には、敵階級と諸党派総体の対立度をこえて、党派間の対立が激化することはなかったのであるが、ロシア革命以後においては、それはすでに「古き良き時代」となっているのであり(そのロシア革命の場合にすら、レーニンは、一時、ソビエトにではなく、工場委員会連合に依拠しようとしたのであったが)、「統一戦線の最高形態としてのソビエト」の実現過程は、激烈な党派間関係(協同と闘争、相互変革)の練獄をくぐることになるだろう。
 このことに鋭く気づいていたのはトロツキー自身である。「現在では(一九三一年)『ソビエト』という言葉は、一九一七―一九一八年当時と、全く違った響きをもっています。今日では、この言葉は、ボリシェヴィキ独裁の同義語として、社会民主主義のこけおどしの道具となっています。
 ドイツでは、社会民主主義者は、再び率先してソビエトを結成しようとしたり、または、その実現に自からすすんで加わったりは、もはやしないでしょう。いや、その逆に、それを、あらゆる手段をつくして妨げようとするでしょう。……これらすべての点を考慮すると、ドイツでは、権力掌握のための蜂起と命令の前に労働者の大多数を真に含めたソビエトを結成するかどうかは、疑わしくなってきます。わたしには、ドイツにおいて、ソビエトは、勝利の翌日、すでに権力の直接的機関として、生れてくるという方が、可能性があるように思えます。工場委員会の問題は、全く違った形で提起されています。工場委員会は、現在すでに存在しているのです。それは、共産主義者と社会民主主義者によって結成されています。ある点までは、工場委員会は、労働者階級の戦線の統一を実現しています。革命的上昇が起これば、工場委員会は、この機能を深め、広げてゆくことでしょう。……工場委員会の地方、地域、全国会議は、権力の二重性の機関として、実際はソビエトの役割を果すための基礎となるでしょう。……そのことは、一九二三年ドイツにおいて、すでに確認することができました。」(「生産の労働者管理について」)

C「ソビエト運動」とは何か
〈a〉「ソビエト運動」という概念は成立するか。その場合、その積極的意義は何か
〈b〉「ソビエトのための闘争」
〈c〉固有の意味での「ソビエト運動」

D 概念の歴史的継承と、その現在的鍛え直しの問題について
〈a〉初期コミンテルンの「労働者統一戦線」は、「共同行動としての労働者統一戦線」と「革命的統一戦線」の双方を含み、その相互関連において成立していた。
〈b〉われわれの「プロレタリア統一戦線」は、「共同闘争」とはハッキリ区別された「戦略的な権力基礎の培養」である。
 その場合、「プロ統」と「共同闘争」の相互関連はどうなるのか。
 「プロ統独自勢力」―「共同闘争」―「プロレタリア統一戦線」の実現ということであるか。

E「統一戦線戦術」の適用対象の問題
 初期コミンテルンの「統一戦線戦術」は、その名称が示しているように(「労働者統一戦線と第二、第二半、アムステルダム各インターナショナル所属労働者ならびにアナルコ・サンジカリズム諸組織支持労働者への態度とに関する指針」)、社民とアナルコ・サンジカを主要な対象にしていた。初期コミンテルンが、社民のみならず、アナルコ・サンジカに注目したのは、ヨーロッパにおいては、第二インター系諸党の日和見主義に対する革命的反撥がそこに体現されていたからであり、かつ、それが革命的プロレタリア大衆によって担われていたからであろう、事実、敵階級と社民に対抗して、ロシア革命の衝撃を受けつつ、多くの革命的プロレタリアが、ボリシェヴィキ的「共産主義者」へと転身している(たとえば日本の「ボル派」は、アナルコ・サンジカ的な革命的プロレタリアと「新人会」等の新たな左翼インテリゲンチャの合成である)。
 だがすでにみたように、コミンテルンとKAPD(正統的アナルコ・サンジカということではないが)の関係に示されるように、第三回大会を前後して、相互に対立、絶縁関係に入り、コミンテルンは、社民に力点を絞っていく。
 言うまでもなく、それは労働組合に組織された労働者大衆への社民党の大きな規定力ということと同時に、社民党そのものの変化の可能性ということを前提としていた。
 たとえばレーニンは、自らがすでに『第二インターナショナルの崩壊』において、公然と分裂を呼びかけ、さらにローザが「腐臭ふんぷん」と形容したドイツ社会民主党について、一九二〇年の段階で、なおかつ次のように述べている。「ついでながら一言しておくが、われわれが一貫してまもって来た意見、すなわち革命的なドイツ社会民主党―この革命的社会民主党こそ、革命的プロレタリアートが勝利するために必要とする党にいちばん近いという意見を、今日歴史が、大きな世界史的な規模で確認しているのである。戦争の時期と戦後の最初の年月とのあらゆる恥ずべき崩壊と危機がすぎ去った一九二〇年の現在、西欧のあらゆる党のうちで、革命的なドイツ社会民主党こそがもっともすぐれた指導者を出しており、またこの党こそがほかの党よりも早く立ち直り、回復し、ふたたび強化されていることは、はっきりしている。このことは、スパルタクス団にも『ドイツ独立社会民主党』のプロレタリア左翼――これはカウツキー、ヒルファーディング、レーデブル、クリスピンの日和見主義と無節操とにたいしてねばり強く闘争している――にもみられる。」(『共産主義における「左翼」小児病』)
 「小ブルジョア的・半無政府主義的革命性との容赦のない闘争」における、以上のようなレーニンのドイツ社会民主党の評価の仕方は、言うまでもなくドイツ社会民主党総体ではなく、そのうちにはらまれていた「革命的なドイツ社会民主党」に対してである。だが、それらを生みだしたものとして、ドイツ社会民主党はドイツにおける「唯一の労働者党」たることを証明したのである。コミンテルンの社民勢力への再接近は、以上のような意味で不可避であり、正しかったのだが、同時に、「小ブル的・半無政府主義的革命性」や「アナルコ・サンジカ」とのこれまでみたような訣別、「克服」の仕方は、コミンテルン「統一戦線戦術」の生命力を弱めることになったのも事実なのである。
 日本社会党が、現在なお、労働組合に組織された労働者大衆に無視しえぬ規定力をもちえており、かつ、その内部にきわめて微弱だが、革命的諸要素を残しえている。
 だが、重要なことは、それは日本における「唯一の労働者党」としてのそれではなく(すでに戦前以来の日共との分岐をへている)、スターリン主義党の反プロレタリア的性格のもとでの「社民勢力の再生」という限定的なものである。さらに八〇年代以降の「新左翼」勢力の擡頭。
 日本資本主義分析―階級分析―党派分析の深化の中から、「適用対象」の問題を、戦略的に再確定していくことが急務である。

F 「統一戦線戦術」と党建設
 「統一戦線」は、党派が目的意識的に展開するものとして、党(と、その「政治的戦略と戦術」)の一定の確立を前提とすると同時に、その展開を通して、党(と、その「政治的戦略と戦術」)は鍛え上げられる。
 だが「一般的に言って、統一戦線は、強力な革命的政党に取ってかわることはできない。できることは、その政党がなお強化するのを援助することである」「労働者政党が、統一戦線政策を遂行せざるをえないということには、議論の余地はない。しかし統一戦線政策にも、独自の危険が伴っている。闘争の中に全身をひたしている革命的政党のみが、そのような政策を実施できるのだ。いずれにしても、統一戦線政策は、革命政党の綱領となることは不可能なのだ。ところが、社会主義労働者党のあらゆる行動は、統一戦線政策の上に組み立てられている」(トロツキー『次は何か?』)という問題。「統一戦線」は「万能薬」ではないのである。

(2)深めるべき課題




 “「プロレタリア統一戦線論」の検討”について

一九八○年一二月
   倉田 洋

(1) この論稿の目的は、冒頭でみたようなわれわれのプロ統建設をめぐる問題状況の克服に向けて、われわれの『プロ統論』そのものがはらんでいると思われる問題点に検討を加えることを通して、@統一戦線論の対象領域をハッキリさせること、その上で、Aいわゆる「ジグザグ」「ジレンマ」「二律背反」の根拠と従って克服の方向を再設定しようとしたものであった。
 『プロ統論』においては、そもそも、何故プロ統建設が提起されたのか(歴史的、論理的にも統一戦線の「出発点」はどこにあったのか)が不鮮明であり、その結果、統一戦線論の対象領域が不明確になっているのではないのか。そのことにも規定されて、コミンテルンの「統一戦線戦術」への批判の仕方が出口のない円環構造、堂々めぐりとなってしまっているのではないのか。とi
 というのは、初期コミンテルンにおける「統一戦線戦術」の提起は、ソビエト運動(革命・権力)の勝利的前進が直線的には困難となっており、他方でファシズムの初期的擡頭が開始されるという状況の下で、ソビエト路線を前提としつつ、しかしその勝利的実現への諸条件、過程、過渡的任務として、「部分的要素」「過渡的要求」をめぐっての統一戦線(共同行動としての「労働者統一戦線」)を組織化し、その推進をとおしてソビエト(「革命的統一戦線」、あるいはトロツキー「統一戦線の最高形態としてのソビエト」)を再興していくものとしてなされている。だがそのことは、ソビエト運動と統一戦線との間に不可避的かつ本来的に、対立的矛盾を相互変革、相互止揚の過程をとおしてのみ克服される格闘課題として生みだしていく。
 この克服は実践的にはきわめて困難だが、しかしそれは革命の困難さと同義である。コミンテルンの「ジグザグ」も根本的には、それをめぐっていたのであり、かつそれを克服すべく格闘もなされたのだが、しかし、それはボリシェヴィズムの本質的・路線的限界のもとで解決不可能な「ジレンマ」「二律背反」として反動的に固定化されていく(実質的にはソビエトの否定、清算)。ところが、『プロ統論』においては、「労働者の統一への志向」が本来的にはらんでおり、われわれが「社会革命の現実的な力を現在的に育てる」ことをとおして実現していくべきプロ統とは「プロレタリア革命を現在的に準備していくところの現在の直下に擡頭せんとする『人間的社会』」、すなわちソビエト運動そのものなのだが、そのことを路線の本質的性格において欠落しているコミンテルン(ボリシェヴィズム)は、「統一戦線と共同行動を混同」してしまい「多数者獲得」と「多数者結集」との「ジグザグ」「二律背反」におち入ったとされている。
 しかし、以上のように言うことは、そもそも統一戦線が、ソビエト運動の直線的勝利が不可能となる状況の下でその実現に向けての諸条件、過程、過渡的任務をめぐって提起され、そこにおいて不可避的に生みだされる矛盾との関係で「ジグザグ」がおこっているのに対して、それは、統一戦線が充分ソビエト運動的でないからだという批判の仕方、何と格闘したらよいのかが少しも明らかとならない分析の仕方となっていないだろうか。

(2) 『プロ統論』の論理展開が種々の意味できわめて、「難解」なこともあり、この作業も困難な仕事だったが(当然、論旨を誤解している余地を残している)、@そもそもの「出発点」をソビエト運動の「迂回路」として押え、A「ジグザグ」の根拠を、ソビエト運動と統一戦線との間に本来的に生みだされる「矛盾」、相互変革、相互止揚をとおしてのみ克服される格闘課題としてとらえかえし、その上で、Bその克服を「ジレンマ」「二律背反」として不可能にしていくコミンテルン(ボリシェヴィズム)の問題点を掘り下げるというふうに再設定してみることによって、ようやく「円環構造」「堂々めぐり」に論理的に「出口」をつけえたと思われた。

(3) しかし、この作業は、まさに課題の「論理的」な再設定にとどまり、たとえば、統一戦線が戦後ドイツ革命や初期コミンテルンにおいて、いかなる階級闘争の現実の中から登場し、どのような実際的な諸要求、組織形態をめぐって、ソビエト運動、レーテ運動との間に解決されるべき「矛盾」を生みだしたか、それとの格闘はわれわれにどのような実際的教訓を与えているか等についてはふみこみえていない(本討議資料に採録されている別稿には、一定程度触れられている)。
 とりわけ、日本階級闘争の現在につなぐかたちでの作業となりえてないことも原因の一つとしてこの作業は、冒頭にふれたプロ統建設をめぐる問題状況の克服に向けては無力なまま、現在に至っている。このことは問題状況の把握の仕方そのものの限界にも帰因しているだろう。
 われわれのソビエト運動、プロ統建設のための闘いが何に直面し、何を解決すべく駆りたてられているのかということとの、内在的、集団的な格闘の稀薄さ。

(4) 「迂回路」という言い方については、単にそれが誤解の余地を残す表現というに留まらず、そこには統一戦線論の対象領域の把握の仕方そのものの限界が反映しているものとして、現在では自己批判的に再点検されなくてはならない。
 ソビエト運動と統一戦線、あるいは「革命的要求」と「部分的要求」「過渡的要求」との関係は、第一に、決して一方通行的、水増し的な関係ではなく、相互変革、相互止揚の関係であること、第二に、その過程はまさしく革命主体の形成過程そのものであること。
 以上のことは、ソビエト運動と統一戦線との間に不可避的、本来的に生みだされる「矛盾」、その克服に向けての格闘の過程がプロ統建設の過程そのものでもある「矛盾」をいかに克服していくかということの中身に関連している。
 @敵との対抗をとおして、又、闘う内部での(相互)批判―(相互)自己批判をとおして、ソビエト運動の要求、闘い、団結の中身の再点検、洗い直し。
 A階級的自己批判、自己変革をとおしてはじめて見えてくるもの――対象認識の深化=具体化。
 そのことは、対象を構成している諸矛盾の現実的把握が可能となることを意味する。――新たな要求の発見。それとの関係でのこれまでの要求の洗い直し。
 B共同闘争の条件の現実的生成――相互変革、相互止揚の条件の形成――プロ統建設の現実化(以上のことは被差別大衆の闘いと糾弾が鋭くうきつけていることでもある)。

(5) この論稿で何度か用いた「本質的な意味での『政治』の領域」ということについて。
 それはいわゆる「経済闘争と政治闘争」というときの「政治」と無関係ではないが、そういう意味で使用しているのではない。
 「経済」との関係での「政治」という場合、そこには、より高次の、より普遍的なという意味、ニュアンスが含まれているが、ここでは、そういう意味ではなく、ある普遍的なものが形成されていく過程、諸条件、過渡ということをめぐって「政治」は成立するという理解のもとに使用している。
 そして、そのことはマルクス主義的な「政治」の本質規定としてそう間違っていない筈である。
 「政治」は本質的にどこで成立するのか、言いかえれば「政治」はどこで死滅するのかと立ててみれば明らかである(「共同体」と「政治」の関係)。事実、「経済的解放が大目的であり、政治闘争はその手段である」「コンミューンは労働の経済的解放を成しとげるためのついに発見された政治形態であった」というふうに使用されている。
 「政治」が言わば「上位概念」に思えるのは階級社会での「政治」の比重の反映であるにすぎず、真の「共同体」との関係では「政治」は死滅すべきものとして言わば「下位概念」なのである。
 しかし、だからこそ、階級社会、過渡期社会をつらぬいて「政治」は決定的に重要であり、過程、諸条件、過渡をみきわめ、闘いぬく「政治的能力」「政治的直覚」「政治家としての技能」を徹底的に鍛えあげ、「政治組織」として継承、蓄積することが死活的となるのである。


注・『「左翼」小児病』にはママとルビが振られている。